ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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家紋は、公家だけでなく、平安末期に登場した武士たちが「自分の存在の顕示」をするために作り出したものだといいます。
デザインに関して言うと、旗印にも家紋が描かれていますが、もともとは戦場で遠くからでも判別できるように簡素なデザインのものが主流だったそうです。
例をあげるなら、島津の「丸に十字」。
簡素此処に極まれり、でしょう(笑)。
逆に、商標登録されている奥州伊達氏の「竹に二羽飛雀」は複雑すぎます。
それで。
今更ですが、相良の家紋は主に次の2種類があります。
左は「長剣梅鉢」、右は「六つ瓜に七つ引」。
戦国時代までは左を、それ以降は右を使用したといいます。
今回のネタは、左のほうです。
家紋の特徴で分類すると、これは「梅鉢系」という割とそのままな分類に属します(^◇^)。
しかし、なんで梅?
りんごじゃだめなのか(笑)?
…そういうわけで調べてみました。
すると、これ。
なんだか記念品のようです。
1221年、承久の乱が起きたとき、すでに肥後国球磨郡に下向していた相良長頼(相良氏初代)は、北条泰時に属して宇治川の戦いに出陣、武功をたてました。
これを喜んだ北条泰時は、青磁の椀に梅の実5個を盛って酒宴を催し、長頼の功を賞しました。
それを記念して、相良氏は梅を家紋に採用したそうです。
つまり、酒のつまみを家紋にしたってことでしょうか…なんか違うね。
そんなこんなで、今回は相良家の家紋について書いてみました。
以下のサイト氏を参考にさせていただきました。
『風雲戦国史‐戦国武将の家紋‐』www2.harimaya.com/sengoku/index.html
そのなかの『武家家伝_相良氏』www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
遠江相良庄における相良氏の発祥から、関ヶ原の戦いを経て相良氏が人吉藩の近世大名になるところまで書いてあります。
当ブログよりずっと詳しいサイト氏ですよ。 14:53
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関ヶ原合戦時の相良氏については、肥後相良氏カテゴリーの「相良左兵衛佐の手の者、一番乗り」(別窓)をご覧ください。
1600年9月15日の決戦、天下分け目の関ヶ原。
合戦に参加して勝利を収めた者、敗走した者、散った者、敵中突破を為した者。
諸将様々な動きを見せた、この合戦、その日。
相良勢は、水面下で独特な動きを展開していました。
それは西軍から東軍への寝返り。
東軍の勝利が確定すると見るや、犬童頼兄が主君に提案したそうです。
長毎はその案に賛成し、寝返り実行を決意します。
9月17日、長毎から命を受けた犬童頼兄(このときには相良頼兄)は、同じ大垣城で二の丸を守備していた熊谷直盛、垣見一直、木村勝正らの三将殺害のため、兵を10人選んで合言葉などの手はずを決めました。
そして翌18日。
頼兄は、軍議をするからと嘘を言って3人を呼び、城外で垣見・熊谷父子を殺害、首を挙げました。
その首は、長毎から包囲軍の水野勝成を通して井伊直政に送られ、寝返りが成立しました。
関ヶ原後、相良家は本領を安堵され、なんとかお家存続を果たします。
これも頼兄のおかげ。
そう思った長毎は、功臣・頼兄に500石を加増しました。
この頃から、頼兄は『清兵衛』と名乗り始めます。
それまでは『兵部』だったのですが、井伊直政の官途が『兵部少輔』であったため、清兵衛に変更したそうです。
ところで。
『天下分け目の大合戦』と言えるのは、この戦の主役、徳川家康と石田三成…おまけに黒田官兵衛(笑)くらいではないでしょうか。
他の大名にとっては、天下分け目ではなく『お家分け目』が精々かと思われるのです。
どさくさに紛れて、というノリで天下を取れるような大大名ならともかく、相良氏のような小大名は特にそうでしょう。
そんな『お家分け目』の関ヶ原で、見事功を挙げた相良清兵衛頼兄。
小大名にとっては最高の戦功に違いありません。
それを成し遂げた彼の出世は、まだまだ止まるところを知りません。
次回、「犬童清兵衛頼兄 伍」では、ついに専横に走り、藩を私する行動を始める頼兄について書いていきます。
クライマックスが近づいてきました。 2:22
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武蔵守よろし氏が運営されているサイト、戦国未満の「戦国ソング」という項目で見つけた曲です。
歌詞はコレです↓
www.uta-net.com/user/phplib/Link.php
もう、見たまま歌詞のまま(笑)。
関ヶ原の第3の主役、黒田官兵衛を歌った曲です。
せめて関ヶ原の戦いが長引けば、天下を取ったであろうと言われている策士・黒田官兵衛。
徳川家康や石田三成が睨みあっている間、彼は国もとの九州で、西軍側の諸将の領土をあらかた切り取り、その兵力を以って関ヶ原に乱入し、天下を取るつもりでした。
しかし、関ヶ原合戦はわずか1日で勝負がついてしまいます。
これにて官兵衛の野望は潰え、信長・秀吉・家康を押し上げた天才としての名前しか残らなかったわけで。
いや、それにしても。
『黒田官兵衛苦笑い』だけれども、歌詞を見て曲を試聴して、管理人は大笑いでした(笑)。
あえてここで相良話に繋げるなら、黒田官兵衛と深水宗方、犬童頼兄を比べると、策士として最も優れていたのはだれでしょうか。
…やはり、ダントツで黒田官兵衛でしょうか?
主に活躍規模の差で。 1:39
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肥後隈府城の隈部親永が国主佐々成政に反抗、これより肥後国人一揆に発展する。
この年の五月、豊臣秀吉は九州へ軍を進めて島津氏征伐を行い、九州を平定して改めて国割りを行いました。
その結果、翌六月二日に佐々成政に肥後一国が与えられることになるのですが、成政はいきなり難しい局面に立たされることになります。
肥後は元々菊池氏が治めていましたが、戦国期に入ると力のある家臣たちが次々と独立して国人化し、菊池氏の存在は有名無実化していました。
こうして地域ごとに独立した国人衆がそれぞれの地域を支配し、有事の際にはそれぞれの判断で進退を決めていました。
当時、肥後中央部に隈本城主・城久基、北部に隈府城主・隈部親永、北西部に筒ヶ岳城主・小代親泰、南部に人吉城主・相良長毎といった国人衆が割拠していましたが、このうち隈部親永が成政に対して公然と反旗を翻します。
秀吉は成政を肥後国主として任じた際、「五ヶ条の制書」と呼ばれる朱印状を下しますが、その中に「三年検地有まじき事」という一条があります。
それに反して成政が性急に検地を行ったため国人衆が反発したとされますが、実態はもう少し複雑な事情があったようです。
肥後の国人衆たちは秀吉の九州平定後、旧領は安堵されたものの、所領は大きく減らされました。
細かく言えば、菊池氏支配当時の所領に戻されたわけで、その後戦国期のどさくさに紛れて押領した分はすべてカットされたのです。
隈部氏の場合を例に取れば、千九百町あった所領が八百町に減らされました。
これでは国人たちが反発するのも無理はありません。
しかし、国人たちにも問題がありました。
彼らは本領安堵の意味を従来の大友・龍造寺・島津氏による肥後争奪時代と同様に考えていたようで、成政から通達された際にも「我々は秀吉公から所領を安堵されている。貴公(成政)から指図を受けるいわれはない」といった態度に出ました。
国人衆にすれば秀吉の家臣ということでは成政とは同格であり、その下に入ることが納得できなかったのでしょう。
ともあれ隈部但馬守親永は子の山鹿城(熊本県山鹿市)主・式部大輔親安(泰)と籠城し、成政に反抗しました。
そして、この動きに同調する国人衆が次々と現れることになります。
またコピー…すいませんー。
実はこの一揆、大変な目に遭ったのは佐々氏だけでなく、相良氏もなんです。
若干自業自得ですけれども(笑)。
一揆勢が隈本城を包囲したとき、秀吉は伊集院忠棟を介して、島津氏に佐々氏を助けるよう命じます。
命を受けた島津義弘は、「よし来た」とばかりに?行軍を始めました。
しかし、それをどう勘違いしたのか、佐々氏は、一揆のどさくさに紛れて島津が自分を討つのではないかと誤解して慌てます。
そこで、人吉在住の相良長毎-佐々成政のときも、のちに移封してくる加藤清正のときと同じく、肥後の与力として働いていた-に、島津軍の行軍を阻止せよと命じました。
まだ若かったせいか、それを真に受けた相良くんは、佐敷で島津軍を止めてしまいました。
「秀吉公の命であるのに、なぜそんなことをするのか」と怒った伊集院忠棟は、秀吉に長毎の行動を訴えました。
当然、秀吉は怒り心頭でして。
大慌てで深水宗方(長智)が大阪に行き、弁明に努めてなんとか秀吉の怒りを解きました。
優秀な家臣をもつことは、ほんとうに大事なことですね…。
しかし、翌年2月。
島津義弘は、石田三成と細川藤孝に対して、「相良氏の行動はあきらかに一揆行動であるから、討ち果たすべき対象であり、長毎が大阪に来たときには糾弾すべきだ」と訴えました。
訴えに対して2人は「それはもっともだ」と答え、今度義弘が大阪にやって来たときに詳しく話を聞かせてくれ、秀吉公にも話すつもりだから、と返しました。
最高に危機的状況に立たされた相良くん\(゜ロ\)(/ロ゜)/
実は…彼(ら)のとった行動には、ある種の「リベンジ」があったのではないか、と言われています。
よく書きました通り、長毎の父親である義陽の戦死以来、相良家は島津「幕下」体制下に組み込まれました。
この境遇において、相良氏は島津家の仕打ちに対する反抗心を抱いていたとも考えられています。
そのため、島津氏の行軍を阻止して「ざまぁみろ」という気持ちもあったのかもしれません(管理人の私見)。
さらに、ある程度の時間行軍を止めさせれば、島津氏は秀吉に怒られるのではないか…秀吉からの信用を無くすのではないか…と、島津氏を陥れ、次こそ自分がのし上がっていこうとする思惑があった可能性もあります。
その辺りが、「相良のリベンジ」を感じさせます。
秀吉だけでなく、石田・細川両氏にも「逆臣」と見なされて、またもやお家存続の危機に立たされてしまった相良氏ですが、なにはともあれ、宗方のおかげで取り潰しを免れることができました。
毎度毎度、うまく切り抜ける一族です(笑)。
ですが、この問題は、以後の島津・相良両氏の関係にひずみを生じさせました。
同年4月、島津氏は(きっと秀吉に)巣鷹(巣のなかにいる鷹の雛のこと。これを捕まえて鷹狩り用に飼育する)を献上したいのに、相良氏が立ちはだかって苦労している、と加藤清正にこぼしています。
大大名島津氏に苦労させる、小大名相良氏。
今更ですが、相良氏って、結構気の強い一族なのかもなぁ。 16:25
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義陽(よしひ・よしてる・よしはる)は第17代当主・晴広の子で、1544年2月8日、木上の上田氏館で生まれました。
父の死を機に家督を継ぎますが、義陽の叔父である(晴広は相良分家の上田氏出身)上村頼孝(よりたか),頼堅(よりかた),長蔵(ながくら)が、それぞれの居城である上村城,豊福城,岡本城に拠って義陽に反発する事件が起こります。
3人の叔父は、相良氏領である三郡…球磨,八代,葦北を各々で分領しようと企んでいました。
これは「三郡雑説」といわれています。
しかし義陽は強かった(笑)!
てきぱきと軍を動かし、ついには3人を滅亡させました。
たとえ叔父であろうが、本家であり主家である相良家にたて突く輩には容赦しません。
その後も、周囲の小大名が次々に大勢力によって滅ぼされていく中、義陽はうまく家を運営していきます。
ですが。
薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げた島津氏の勢力には、勝てませんでした。
天正9年、1581年2月。
肥後へと侵略を始めた島津氏は、手始めに水俣城攻略戦を開始します。
緒戦では相良家重臣の深水氏、犬童氏など40名が戦死し、同年9月20日の戦闘では、相良方に160名の戦死者が出ました。
翌21日。
戦国稀に見る、有名なできごとが起こります。
水俣城中で防戦につとめていた深水頼安に向かって、島津方の重臣・新納忠元が
『秋風に 水俣落つる 木の葉かな』
という連歌の発句を矢文に託して射させました。
これを受け取った深水頼安は、
『寄せては沈む 月の浦波』
と返しました。
意味は、『そろそろ水俣城も落ちるんじゃない?』『いやいや、何度来ようと落ちないよ』という内容だそうです。
互いに教養人であったそうですが、内容はまさしく武人。
爽やかな歌からにじみ出る2人の心意気、武士としての勇ましさには、思わずこっちが切腹してしまうくらいです(笑)。
同26日。
頼安はついに開城を決意しました。
翌日、城を明け渡し、城兵とともに退去します。
10月には義陽が島津氏と和睦、ついに相良氏は「島津幕下」に属すことになりました。
11月。
島津家当主・義久は、北九州の大友氏攻略のため、義陽を先鋒として、まず反島津の阿蘇氏の重臣・甲斐宗運(かい・そううん)が拠る御船城攻略戦を命じました。
この命令が、義陽を戦死へと誘いました。
実は、義陽と宗運は古くからの入魂の間柄だったのです。
しかし、義陽が義久との盟約を違えば、相良家は取り潰しになります。
それでも、親友である宗運とは戦いたくない。
義陽は悩んだ結果、宗運との一戦を覚悟しました。
かつて宗運から送られた誓紙を焼き捨て、八代の白木社で、神官に自身の死を祈願させました。
12月1日。
出陣の際、相良軍の軍旗が翻った勢いで楠の枝にひっかかり、出陣の刻限を遅らせなければならなくなるなど、不吉なできごとがありました。
義陽は響ヶ原に布陣します。
しかし、ここは防戦には不利な場所でした。
家臣たちが場所を変えるよう進言しても、義陽は聞く耳をもたず、ここに居座ります。
翌日、義陽の出陣が宗運に知らされますが、彼は当初、信じられませんでした。
「島津の勢力拡大の陰に相良あり」。
宗運は、義陽から送られた誓紙を阿蘇の神池に沈めさせました。
相良軍は、はじめは次々に城を落とし、快勝を重ねました。
阿蘇軍の後方支援を断たせた上で先鋒軍を攻撃するなどして、大勝を収めます。
しかし、阿蘇軍の本隊は軍旗を捲いて相良軍本隊の西北に潜行し、また、遊撃隊は北側に迂回して好機を待っていました。
そして、時機が到来すると。
一斉に鉄砲を放ち、形勢が逆転するほどまでに相良軍を追い込みました。
一旦退いて、本陣を移すよう進言する家臣たちですが、義陽はそれを一蹴、100名近い戦死者を出しました。
12月2日。
次第に敗色が濃くなるなかで、義陽自身は床机に座したまま、敵兵に討たれました。
享年38歳。
義陽の戦死の報に接した甲斐宗運は涙を流し、『これで我が家の滅亡も3年とは持つまい』と落胆したそうです。
さらに、島津義弘も義陽の戦死を悲しみました。
お家の存続と己の友情の間で揺れ、お家を選択した相良義陽。
戦国時代においては当然の行為だったのかもしれません。
が、私情を捨てて自分の公式の立場を尊重することは、今も昔も為しがたいことでしょう。
彼が彼自身を放棄してまで願った「子孫の長久」。
様々な危機に瀕しながらも、相良家は見事永く存続を果たします。
な、長い…(^◇^);
途中で区切ろうとしたのですが、キリが悪くて断念しました。
管理人が特に好きな当主のひとり、相良義陽。
とりあえず、見所だけをピックアップしたつもりです。
そしてそして。
勢いに乗って、『犬童頼兄日記』をはじめました。
完全に遊びです。
一応リンクに置いておきましたが、創作モノが苦手な方はご注意ください。 2:23
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公