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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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【肥後で国人一揆発生】天正十五年(1587)7月10日
肥後隈府城の隈部親永が国主佐々成政に反抗、これより肥後国人一揆に発展する。

この年の五月、豊臣秀吉は九州へ軍を進めて島津氏征伐を行い、九州を平定して改めて国割りを行いました。
その結果、翌六月二日に佐々成政に肥後一国が与えられることになるのですが、成政はいきなり難しい局面に立たされることになります。

肥後は元々菊池氏が治めていましたが、戦国期に入ると力のある家臣たちが次々と独立して国人化し、菊池氏の存在は有名無実化していました。
こうして地域ごとに独立した国人衆がそれぞれの地域を支配し、有事の際にはそれぞれの判断で進退を決めていました。
当時、肥後中央部に隈本城主・城久基、北部に隈府城主・隈部親永、北西部に筒ヶ岳城主・小代親泰、南部に人吉城主・相良長毎といった国人衆が割拠していましたが、このうち隈部親永が成政に対して公然と反旗を翻します。

秀吉は成政を肥後国主として任じた際、「五ヶ条の制書」と呼ばれる朱印状を下しますが、その中に「三年検地有まじき事」という一条があります。
それに反して成政が性急に検地を行ったため国人衆が反発したとされますが、実態はもう少し複雑な事情があったようです。

肥後の国人衆たちは秀吉の九州平定後、旧領は安堵されたものの、所領は大きく減らされました。
細かく言えば、菊池氏支配当時の所領に戻されたわけで、その後戦国期のどさくさに紛れて押領した分はすべてカットされたのです。
隈部氏の場合を例に取れば、千九百町あった所領が八百町に減らされました。
これでは国人たちが反発するのも無理はありません。
しかし、国人たちにも問題がありました。
彼らは本領安堵の意味を従来の大友・龍造寺・島津氏による肥後争奪時代と同様に考えていたようで、成政から通達された際にも「我々は秀吉公から所領を安堵されている。貴公(成政)から指図を受けるいわれはない」といった態度に出ました。
国人衆にすれば秀吉の家臣ということでは成政とは同格であり、その下に入ることが納得できなかったのでしょう。
ともあれ隈部但馬守親永は子の山鹿城(熊本県山鹿市)主・式部大輔親安(泰)と籠城し、成政に反抗しました。
そして、この動きに同調する国人衆が次々と現れることになります。 

またコピー…すいませんー。
実はこの一揆、大変な目に遭ったのは佐々氏だけでなく、相良氏もなんです。
若干自業自得ですけれども(笑)。

一揆勢が隈本城を包囲したとき、秀吉は伊集院忠棟を介して、島津氏に佐々氏を助けるよう命じます。
命を受けた島津義弘は、「よし来た」とばかりに?行軍を始めました。
しかし、それをどう勘違いしたのか、佐々氏は、一揆のどさくさに紛れて島津が自分を討つのではないかと誤解して慌てます。
そこで、人吉在住の相良長毎-佐々成政のときも、のちに移封してくる加藤清正のときと同じく、肥後の与力として働いていた-に、島津軍の行軍を阻止せよと命じました。

まだ若かったせいか、それを真に受けた相良くんは、佐敷で島津軍を止めてしまいました。
「秀吉公の命であるのに、なぜそんなことをするのか」と怒った伊集院忠棟は、秀吉に長毎の行動を訴えました。
当然、秀吉は怒り心頭でして。
大慌てで深水宗方(長智)が大阪に行き、弁明に努めてなんとか秀吉の怒りを解きました。
優秀な家臣をもつことは、ほんとうに大事なことですね…。

しかし、翌年2月。
島津義弘は、石田三成と細川藤孝に対して、「相良氏の行動はあきらかに一揆行動であるから、討ち果たすべき対象であり、長毎が大阪に来たときには糾弾すべきだ」と訴えました。
訴えに対して2人は「それはもっともだ」と答え、今度義弘が大阪にやって来たときに詳しく話を聞かせてくれ、秀吉公にも話すつもりだから、と返しました。

最高に危機的状況に立たされた相良くん\(゜ロ\)(/ロ゜)/
実は…彼(ら)のとった行動には、ある種の「リベンジ」があったのではないか、と言われています。
よく書きました通り、長毎の父親である義陽の戦死以来、相良家は島津「幕下」体制下に組み込まれました。
この境遇において、相良氏は島津家の仕打ちに対する反抗心を抱いていたとも考えられています。
そのため、島津氏の行軍を阻止して「ざまぁみろ」という気持ちもあったのかもしれません(管理人の私見)。
さらに、ある程度の時間行軍を止めさせれば、島津氏は秀吉に怒られるのではないか…秀吉からの信用を無くすのではないか…と、島津氏を陥れ、次こそ自分がのし上がっていこうとする思惑があった可能性もあります。
その辺りが、「相良のリベンジ」を感じさせます。

秀吉だけでなく、石田・細川両氏にも「逆臣」と見なされて、またもやお家存続の危機に立たされてしまった相良氏ですが、なにはともあれ、宗方のおかげで取り潰しを免れることができました。
毎度毎度、うまく切り抜ける一族です(笑)。
ですが、この問題は、以後の島津・相良両氏の関係にひずみを生じさせました。
同年4月、島津氏は(きっと秀吉に)巣鷹(巣のなかにいる鷹の雛のこと。これを捕まえて鷹狩り用に飼育する)を献上したいのに、相良氏が立ちはだかって苦労している、と加藤清正にこぼしています。
大大名島津氏に苦労させる、小大名相良氏。
今更ですが、相良氏って、結構気の強い一族なのかもなぁ。 16:25

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