ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
義陽(よしひ・よしてる・よしはる)は第17代当主・晴広の子で、1544年2月8日、木上の上田氏館で生まれました。
父の死を機に家督を継ぎますが、義陽の叔父である(晴広は相良分家の上田氏出身)上村頼孝(よりたか),頼堅(よりかた),長蔵(ながくら)が、それぞれの居城である上村城,豊福城,岡本城に拠って義陽に反発する事件が起こります。
3人の叔父は、相良氏領である三郡…球磨,八代,葦北を各々で分領しようと企んでいました。
これは「三郡雑説」といわれています。
しかし義陽は強かった(笑)!
てきぱきと軍を動かし、ついには3人を滅亡させました。
たとえ叔父であろうが、本家であり主家である相良家にたて突く輩には容赦しません。
その後も、周囲の小大名が次々に大勢力によって滅ぼされていく中、義陽はうまく家を運営していきます。
ですが。
薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げた島津氏の勢力には、勝てませんでした。
天正9年、1581年2月。
肥後へと侵略を始めた島津氏は、手始めに水俣城攻略戦を開始します。
緒戦では相良家重臣の深水氏、犬童氏など40名が戦死し、同年9月20日の戦闘では、相良方に160名の戦死者が出ました。
翌21日。
戦国稀に見る、有名なできごとが起こります。
水俣城中で防戦につとめていた深水頼安に向かって、島津方の重臣・新納忠元が
『秋風に 水俣落つる 木の葉かな』
という連歌の発句を矢文に託して射させました。
これを受け取った深水頼安は、
『寄せては沈む 月の浦波』
と返しました。
意味は、『そろそろ水俣城も落ちるんじゃない?』『いやいや、何度来ようと落ちないよ』という内容だそうです。
互いに教養人であったそうですが、内容はまさしく武人。
爽やかな歌からにじみ出る2人の心意気、武士としての勇ましさには、思わずこっちが切腹してしまうくらいです(笑)。
同26日。
頼安はついに開城を決意しました。
翌日、城を明け渡し、城兵とともに退去します。
10月には義陽が島津氏と和睦、ついに相良氏は「島津幕下」に属すことになりました。
11月。
島津家当主・義久は、北九州の大友氏攻略のため、義陽を先鋒として、まず反島津の阿蘇氏の重臣・甲斐宗運(かい・そううん)が拠る御船城攻略戦を命じました。
この命令が、義陽を戦死へと誘いました。
実は、義陽と宗運は古くからの入魂の間柄だったのです。
しかし、義陽が義久との盟約を違えば、相良家は取り潰しになります。
それでも、親友である宗運とは戦いたくない。
義陽は悩んだ結果、宗運との一戦を覚悟しました。
かつて宗運から送られた誓紙を焼き捨て、八代の白木社で、神官に自身の死を祈願させました。
12月1日。
出陣の際、相良軍の軍旗が翻った勢いで楠の枝にひっかかり、出陣の刻限を遅らせなければならなくなるなど、不吉なできごとがありました。
義陽は響ヶ原に布陣します。
しかし、ここは防戦には不利な場所でした。
家臣たちが場所を変えるよう進言しても、義陽は聞く耳をもたず、ここに居座ります。
翌日、義陽の出陣が宗運に知らされますが、彼は当初、信じられませんでした。
「島津の勢力拡大の陰に相良あり」。
宗運は、義陽から送られた誓紙を阿蘇の神池に沈めさせました。
相良軍は、はじめは次々に城を落とし、快勝を重ねました。
阿蘇軍の後方支援を断たせた上で先鋒軍を攻撃するなどして、大勝を収めます。
しかし、阿蘇軍の本隊は軍旗を捲いて相良軍本隊の西北に潜行し、また、遊撃隊は北側に迂回して好機を待っていました。
そして、時機が到来すると。
一斉に鉄砲を放ち、形勢が逆転するほどまでに相良軍を追い込みました。
一旦退いて、本陣を移すよう進言する家臣たちですが、義陽はそれを一蹴、100名近い戦死者を出しました。
12月2日。
次第に敗色が濃くなるなかで、義陽自身は床机に座したまま、敵兵に討たれました。
享年38歳。
義陽の戦死の報に接した甲斐宗運は涙を流し、『これで我が家の滅亡も3年とは持つまい』と落胆したそうです。
さらに、島津義弘も義陽の戦死を悲しみました。
お家の存続と己の友情の間で揺れ、お家を選択した相良義陽。
戦国時代においては当然の行為だったのかもしれません。
が、私情を捨てて自分の公式の立場を尊重することは、今も昔も為しがたいことでしょう。
彼が彼自身を放棄してまで願った「子孫の長久」。
様々な危機に瀕しながらも、相良家は見事永く存続を果たします。
な、長い…(^◇^);
途中で区切ろうとしたのですが、キリが悪くて断念しました。
管理人が特に好きな当主のひとり、相良義陽。
とりあえず、見所だけをピックアップしたつもりです。
そしてそして。
勢いに乗って、『犬童頼兄日記』をはじめました。
完全に遊びです。
一応リンクに置いておきましたが、創作モノが苦手な方はご注意ください。 2:23
↓相良氏ばっちこい!(押して頂けると、当ブログのランキングがアップします)
にほんブログ村 戦国時代(携帯用リンクです)
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
歴史ブログ村(PC用リンクバナー)
ランキングに参加させていただいています
歴史ブログ村(PC用リンクバナー)
肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公