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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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義陽(よしひ・よしてる・よしはる)は第17代当主・晴広の子で、1544年2月8日、木上の上田氏館で生まれました。
父の死を機に家督を継ぎますが、義陽の叔父である(晴広は相良分家の上田氏出身)上村頼孝(よりたか),頼堅(よりかた),長蔵(ながくら)が、それぞれの居城である上村城,豊福城,岡本城に拠って義陽に反発する事件が起こります。
3人の叔父は、相良氏領である三郡…球磨,八代,葦北を各々で分領しようと企んでいました。
これは「三郡雑説」といわれています。

しかし義陽は強かった(笑)!
てきぱきと軍を動かし、ついには3人を滅亡させました。
たとえ叔父であろうが、本家であり主家である相良家にたて突く輩には容赦しません。
その後も、周囲の小大名が次々に大勢力によって滅ぼされていく中、義陽はうまく家を運営していきます。

ですが。
薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げた島津氏の勢力には、勝てませんでした。
天正9年、1581年2月。
肥後へと侵略を始めた島津氏は、手始めに水俣城攻略戦を開始します。
緒戦では相良家重臣の深水氏、犬童氏など40名が戦死し、同年9月20日の戦闘では、相良方に160名の戦死者が出ました。
翌21日。
戦国稀に見る、有名なできごとが起こります。
水俣城中で防戦につとめていた深水頼安に向かって、島津方の重臣・新納忠元が
『秋風に 水俣落つる 木の葉かな』
という連歌の発句を矢文に託して射させました。
これを受け取った深水頼安は、
『寄せては沈む 月の浦波』
と返しました。
意味は、『そろそろ水俣城も落ちるんじゃない?』『いやいや、何度来ようと落ちないよ』という内容だそうです。
互いに教養人であったそうですが、内容はまさしく武人。
爽やかな歌からにじみ出る2人の心意気、武士としての勇ましさには、思わずこっちが切腹してしまうくらいです(笑)。

同26日。
頼安はついに開城を決意しました。
翌日、城を明け渡し、城兵とともに退去します。
10月には義陽が島津氏と和睦、ついに相良氏は「島津幕下」に属すことになりました。

11月。
島津家当主・義久は、北九州の大友氏攻略のため、義陽を先鋒として、まず反島津の阿蘇氏の重臣・甲斐宗運(かい・そううん)が拠る御船城攻略戦を命じました。
この命令が、義陽を戦死へと誘いました。
実は、義陽と宗運は古くからの入魂の間柄だったのです。
しかし、義陽が義久との盟約を違えば、相良家は取り潰しになります。
それでも、親友である宗運とは戦いたくない。

義陽は悩んだ結果、宗運との一戦を覚悟しました。
かつて宗運から送られた誓紙を焼き捨て、八代の白木社で、神官に自身の死を祈願させました。

12月1日。
出陣の際、相良軍の軍旗が翻った勢いで楠の枝にひっかかり、出陣の刻限を遅らせなければならなくなるなど、不吉なできごとがありました。

義陽は響ヶ原に布陣します。
しかし、ここは防戦には不利な場所でした。
家臣たちが場所を変えるよう進言しても、義陽は聞く耳をもたず、ここに居座ります。
翌日、義陽の出陣が宗運に知らされますが、彼は当初、信じられませんでした。
「島津の勢力拡大の陰に相良あり」
宗運は、義陽から送られた誓紙を阿蘇の神池に沈めさせました。

相良軍は、はじめは次々に城を落とし、快勝を重ねました。
阿蘇軍の後方支援を断たせた上で先鋒軍を攻撃するなどして、大勝を収めます。
しかし、阿蘇軍の本隊は軍旗を捲いて相良軍本隊の西北に潜行し、また、遊撃隊は北側に迂回して好機を待っていました。
そして、時機が到来すると。
一斉に鉄砲を放ち、形勢が逆転するほどまでに相良軍を追い込みました。

一旦退いて、本陣を移すよう進言する家臣たちですが、義陽はそれを一蹴、100名近い戦死者を出しました。
12月2日。
次第に敗色が濃くなるなかで、義陽自身は床机に座したまま、敵兵に討たれました。
享年38歳。
義陽の戦死の報に接した甲斐宗運は涙を流し、『これで我が家の滅亡も3年とは持つまい』と落胆したそうです。
さらに、島津義弘も義陽の戦死を悲しみました。

お家の存続と己の友情の間で揺れ、お家を選択した相良義陽。
戦国時代においては当然の行為だったのかもしれません。
が、私情を捨てて自分の公式の立場を尊重することは、今も昔も為しがたいことでしょう。
彼が彼自身を放棄してまで願った「子孫の長久」。
様々な危機に瀕しながらも、相良家は見事永く存続を果たします。

な、長い…(^◇^);
途中で区切ろうとしたのですが、キリが悪くて断念しました。
管理人が特に好きな当主のひとり、相良義陽。
とりあえず、見所だけをピックアップしたつもりです。
そしてそして。
勢いに乗って、『犬童頼兄日記』をはじめました。
完全に遊びです。
一応リンクに置いておきましたが、創作モノが苦手な方はご注意ください。 2:23

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