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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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天正15年(1587)5月上旬、秀吉の九州征伐に島津氏が降伏。
同時に相良家は島津幕下から解放。
豊臣大名として独立するための第一歩、球磨郡安堵を取りつけるために一役買ったのも、これまた深水長智でした。
彼の交渉能力は、響ヶ原後の相良家存続の際に十分証明されましたが、今回は和歌・連歌の素養を通しての交渉術が展開されます。

秀吉軍が薩摩に入り、川内川(せんだいがわ)を渡ったとき、秀吉が
「鎧の耳(鼻とも)にかかる波かな」
と連歌の発句を詠みました。
すると長智が、
「鞍間より流るる水は力水」
と返したそうです。
また、秀吉が川内泰平寺にいた頃、長智が連歌に長じていることが話題になり、秀吉軍に従軍していた連歌師・森由巴(里村紹巴とも)と秀吉、長智の3人で盛り上がったようです。

秀吉は、このように文化的な素養に溢れた長智を大そう気に入りました。
実際のところ、秀吉は薩摩の掃討戦を考えていましたが、長智が「思い止まって欲しい」と島津氏の安堵を懇願したため、秀吉も「じゃあやめるか」と考えを改めたそうです。
どんだけ(笑)
さらに、肥後の新国主・佐々成政と島津氏の牽制のために、長毎とは別に知行宛行の朱印状を発給し、軍事拠点として八代と並んで重要な水俣城を長智に任せました。
どーんだけ(笑)
その上、秀吉は長智を自分の側近にしようとします。
長毎に対して忠の厚い長智は、さすがにこれは固辞しました。
これには、ただ気に入ったからではなく、きちんと背景もありまして。
戦国期の大名家には、それぞれに知恵袋となるおばあちゃん一族、重臣がおり、殿様方は彼らの力を借りて勢力を維持・発展させていました。
秀吉は、彼ら知恵袋を新規の大名に取り立てたり代官に立てたりなどして、各大名家の権力の抑制を図っていたのです。
例えば、片倉景綱(伊達氏)、直江兼続(上杉氏)、寺西宗則(前田氏)、東義久(佐竹氏)、安国寺恵慧(毛利氏)、伊集院忠棟(島津氏)などが知られています。
深水長智もそのひとりで、秀吉の「おめがね」にかなった人でした。
だからどんだけ(笑)

時の権力者に気に入られた、相良家老臣深水宗方長智。
彼は九州征伐から3年後の1590年、その生涯を終えました。 2:13

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度重なる『戦国魂』氏からの記事コピー…。

【相良義陽討死】天正九年(1581)12月02日
肥後響野原の合戦で相良義陽が甲斐宗運に敗れ討死する。
享年38歳。

肥後相良氏は人吉城(熊本県人吉市)を本拠とする名族で、戦国期には八代古麓城(同八代市)の名和顕忠を下して勢力を広め、肥後南部の雄として存在していました。
十八代当主となった相良義陽(よしひ)は天文十八年(1544)二月、晴広の子として木枝上田館(同錦町)で生まれました。
初め頼房と名乗り、同七年に従四位下修理大夫に叙任、将軍足利義輝の偏諱を受け義陽と改名しています。

天正六年(1578)十一月の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、北上を企図する島津氏は次なる矛先を相良氏に向けてきました。
その頃肥前の龍造寺氏も隈府城(熊本市)制圧を策して相良氏に援軍要請を求めますが、義陽はこれを断っています。

この年の八月、島津氏は肥薩国境に近い水俣城(同水俣市)へ攻め寄せました。
守将の犬童頼安の奮戦も及ばず、結局降伏と同じ和議を結ばされる結果となり、やがて八代も島津氏の支配下となります。
そして島津義久は義陽に対し、御船城(同御船町)の甲斐宗運討伐を命じました。
義陽は同八年十一月以来、阿蘇氏の筆頭家老・甲斐宗運とは親交を結んでいました。
義久の命を拒めば滅亡は明らかで、宗運を討てば日頃の信義に背くことになります。
義陽は迷い悩み抜いた末に遂に決断を下し、宗運討伐への出陣を承諾しました。

義陽は戦死を決意していました。
彼は家臣の反対を押し切って響野原(同宇城市)に陣を敷きますが、これは正に「背水の陣」で、友人であり義陽をよく知る宗運は初めはこれを信じませんでした。
物見の報告によって事実と知った宗運は、「さては相良の命運も尽きたか、自ら死地を選んだとか思えない」とまで述べています。
宗運には彼の心中がよくわかっていたのでしょう。
決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かなかったと伝えられます。そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫りました。
義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。
太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます(別の士が首を取って宗運に献じています)。
宗運は変わり果てた義陽の姿に涙を流して合掌し、深く同情して義陽の死を悼みました。
義陽は歌道にも秀でた文人でもあり、家中からの信頼も厚く、また慕われていたようです。
後に生き残った犬童頼安は密かに戦場を訪れ、義陽の墓前に一首を献じました。

思いきやともに消ゆべき露の身の 世にあり顔に見えむものとは

頼安の亡君に対する思いがひしひしと伝わってきます。
義陽享年三十八。
島津氏でもさすがに気の毒と思ったか、子の忠房に家督を認めて人吉城を返しています。 by Masa
(引用終了)

森田誠一氏曰く、義陽の戦死は相良家の歴史上でも「ドラマティック」。
確かにドラマティックですが、お家のためと言えど、まだ10歳の長男をはじめとする幼い子供達と奥さんを残して死ぬのは、まだ38歳の若武者としては辛すぎる選択に違いなかったでしょう。
歴史を見ていると、「格好いい」や「潔い」などと単純に感動してしまいがちですが、ひっくり返してみると、そこには人間の生々しい部分が晒されていたりしますよね。
それを思うと、なんだかむなしくなる…のは考えすぎ(^◇^);?

以下は相良義陽関連リンク集です。
すべて別窓が開きます。
相良義陽の墓(熊本県八代市HP)
「戦国島津伝 第46章 決意」(狗小屋)
1年目7月25日(犬童頼兄日記)
第18代当主 相良義陽(SAGARA BLOG) 0:58

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相良家の重要な位置を占めていた深水一族のうち、目立ってその名前を残したのが深水宗方長智(ふかみ・そうほう・ながとも)です。
彼が特に活躍し始めるのは、18代義陽の戦死後、嫡子忠房を次期当主に立てる頃からでした。
その頃は島津幕下体制に組み込まれたばかりで、隙あらば相良家が島津家に呑み込まれてしまいそうな勢いでした。
ここで腹の据わった態度を見せ付けなければ、「そんなゴタゴタしてるんなら、島津が管理してやるよ」と相良家の家督相続問題に介入されてしまいます。
その結果、島津の介入が続きゆくゆくは島津家に呑まれてしまう危険性があったようです。

しかし、敵は外ばかりでなく相良家内部にも。

忠房の叔父にあたり、義陽と同日に生まれた弟・頼貞(よりさだ)でした。
頼貞の幼名は「徳千代」でしたが、子供の頃から強情で、片意地なところがあったそうです。
その上、兄になにかと反抗。
父・晴広は、その性格から「成長すれば、必ずや領国を乱すであろう」と心配し、寺に入れることを遺言したと言います。
遺言通り頼貞は寺に入れられて庭柏寺(ていはくじ)の住持となりましたが、勝手に還俗し、八代から薩摩に移っていました。
そこに入ってきた情報が兄・義陽の戦死でした。
頼貞は甥・忠房よりも自分が領国を支配するべきだと考え始めます。

天正9(1581)年12月22日、頼貞は薩摩から兵を率いて大畑(おこば)に至りました。
この報を聞いた相良家は動揺し、頼貞を次期当主にしようとする者さえ現れ始めます。
しかも頼貞のみならず、豊後の大友氏や肥前の竜造寺氏に属そうとする者も出始め、相良家臣団内部は大いに荒れていました。
しかし、重臣深水長智や犬童頼安は、あくまでも忠房や義陽夫人を守護しました。
この騒動を「求麻錯乱」と言います。
その後、重臣らによる説得に負けて頼貞は兵を撤収させ、日向に退去しました。

頼貞の退去によって、郡内では落ち着きを取り戻しつつありました。
ですが、この求麻錯乱の解決には複雑な背景がありました。

騒動は相良家内部で済む問題ではなく、下手をすると島津家に飛び火する恐れあったのです。
その原因は、相良家臣団にある、前当主義陽を戦死に追いやったとする島津家への不満でした。
この不満が、求麻錯乱によって発展・増長し、暴発することを深水宗方らは危惧していたのです。
なんとか島津家と上手く共存できそうな状況になってきていたのに、ここで歯向かってすべてを崩すわけにはいきません。
さらに、この錯乱を島津家の介入なしで解決させなければ、忠房の家督相続時と同じような問題を引き起こす事態に陥るかも知れませんでした。

錯乱を本格化させる前に鎮静化させ、家中の動揺を取りまとめながら、深水長智は犬童頼安とともに毅然として島津との交渉に臨み、忠房の弟を人質に差し出すことで交渉を成立させ、難局を乗り越えました。
この頃の天草久種(あまくさ・ひさたね)書状には、忠房の元服と相良家「御連続之儀」を歓迎しているそうです。
義陽が生きていた水俣合戦以来、近隣領主らが相良家の存続を島津家に訴えてきた成果でもありました。

周囲が「あーだこーだ」と迷走しているさなか、深水長智は本当に相良家のためになる道を見極めて行動していたのですね。
深水長智特集は第2弾に続きます(^◇^)/ 23:56

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古文書の読み方についての授業を受けている管理人です。

jitofuninjo.blog.jpg

(画像クリックで拡大)
出典:森田誠一著「熊本県の歴史」

中学以来学校で日本史を勉強していないせいか、「???」なことも多いです(^◇^);
しかし、覚えたことも少しはあります。
まず、文書の右の空白は「袖」と言うそうです。
そこに書いてあるのは差出人の花押で、文のはじめに「下」と書いてあるのはこれが下知状であることを示しています。
下知状と言うのはいわゆる命令状のことですね。
上の画像の場合、「長頼おまえ人吉の地頭になれや」ということになります(笑)。

これが肥後相良家のはじまり。
初代当主・相良長頼は、人吉市北東部にある願成寺で、子孫の歴代当主に囲まれて楽しく?死後の人生を送っております(意味不明)。

ue-nagayori.jpg
(画像クリックで拡大)
長頼公の墓です。 1:07

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戦国時代ばかりで、そろそろ味に飽きてきましたよね。
と言うわけで、今回は箸休めに戦国から離れて、近世人吉藩を取り上げてみます。

近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。

宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
…という数字は、幕府巡検使にお伝えする模範解答だったので、実際は腹黒い部分も多分にあったでしょう。

当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。
その公事の内容は以下のようでした。
<田畑部門>
胡麻 辛子 芋殻 荒糠 藁 大豆葉 など。
<山林原野部門>
柿 栗 山椒 実樫 猪肉 鹿肉 竹 松 枯草 など。
<加工品部門>
縄 藁筵(わらむしろ) 茶 渋 漆 など。
これらが公事の対象として現物や銀に換算して納められ、藩収入の基本になっていました。

寛永ごろは比較的裕福で、年収入貢米の1.3倍の蓄えがありました。
そのために「長崎買物」と言う商売にも手を出し、仕入れたものを京都で売りさばいて銭にしていたようです。

しかし、宝永元年(1704)頃から財政が傾き始めます。
幕府から命じられた利根川・荒川改修工事のために、京阪・江戸の商人から318貫を借金したのが発端でした。
その年の8月には、江戸藩邸修理費としてすでに大阪の商人から100貫ほど借りていたので、借金は合計約400貫にのぼりました。
1804年頃にはさらに悪化し、借金は710貫。
藩主一族の生活費を切り詰めるほどになりました。
そして翌年には1136貫突破。
1817年にはついに藩士は減知、百姓は上米、町人には上銀の命令が出されました。
殿様もお侍も百姓も、みんな揃って節約・切り詰め生活に耐えていました。

そこで回復すれば救われたのでしょうが、無情にも弘化(こうか)2年(1845)には4229貫にまで膨れ上がり、財政は火の車を通り越してすでに灰。
追い討ちをかけるは、文久2年(1862)の寅助火事。
城下町の大部分が焼け野原になった上に城の一部も焼失してしまい、大打撃と言うよりまさにトドメの一撃(^◇^);
もはや首が回らないにもほどがある状態になった相良家は、細川藩に金1万5000両の借金を頼み込みますが、あっさりお断りされてしまいます。
金銭関係にはクールな細川さん…。
しかし、大阪の近江屋と薩摩藩が助けてくれたので、這這の体で明治維新を迎えることができたのです。

どこの藩も財政は苦しかったと言いますけども。
肥後の山奥に、転落人生ならぬ転落藩政を見られましたね。 2:46

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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました


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「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています


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身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
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なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
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