マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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戦国時代ばかりで、そろそろ味に飽きてきましたよね。
と言うわけで、今回は箸休めに戦国から離れて、近世人吉藩を取り上げてみます。
近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。
宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
…という数字は、幕府巡検使にお伝えする模範解答だったので、実際は腹黒い部分も多分にあったでしょう。
当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。
その公事の内容は以下のようでした。
<田畑部門>
胡麻 辛子 芋殻 荒糠 藁 大豆葉 など。
<山林原野部門>
柿 栗 山椒 実樫 猪肉 鹿肉 竹 松 枯草 など。
<加工品部門>
縄 藁筵(わらむしろ) 茶 渋 漆 など。
これらが公事の対象として現物や銀に換算して納められ、藩収入の基本になっていました。
寛永ごろは比較的裕福で、年収入貢米の1.3倍の蓄えがありました。
そのために「長崎買物」と言う商売にも手を出し、仕入れたものを京都で売りさばいて銭にしていたようです。
しかし、宝永元年(1704)頃から財政が傾き始めます。
幕府から命じられた利根川・荒川改修工事のために、京阪・江戸の商人から318貫を借金したのが発端でした。
その年の8月には、江戸藩邸修理費としてすでに大阪の商人から100貫ほど借りていたので、借金は合計約400貫にのぼりました。
1804年頃にはさらに悪化し、借金は710貫。
藩主一族の生活費を切り詰めるほどになりました。
そして翌年には1136貫突破。
1817年にはついに藩士は減知、百姓は上米、町人には上銀の命令が出されました。
殿様もお侍も百姓も、みんな揃って節約・切り詰め生活に耐えていました。
そこで回復すれば救われたのでしょうが、無情にも弘化(こうか)2年(1845)には4229貫にまで膨れ上がり、財政は火の車を通り越してすでに灰。
追い討ちをかけるは、文久2年(1862)の寅助火事。
城下町の大部分が焼け野原になった上に城の一部も焼失してしまい、大打撃と言うよりまさにトドメの一撃(^◇^);
もはや首が回らないにもほどがある状態になった相良家は、細川藩に金1万5000両の借金を頼み込みますが、あっさりお断りされてしまいます。
金銭関係にはクールな細川さん…。
しかし、大阪の近江屋と薩摩藩が助けてくれたので、這這の体で明治維新を迎えることができたのです。
どこの藩も財政は苦しかったと言いますけども。
肥後の山奥に、転落人生ならぬ転落藩政を見られましたね。 2:46
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と言うわけで、今回は箸休めに戦国から離れて、近世人吉藩を取り上げてみます。
近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。
宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
…という数字は、幕府巡検使にお伝えする模範解答だったので、実際は腹黒い部分も多分にあったでしょう。
当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。
その公事の内容は以下のようでした。
<田畑部門>
胡麻 辛子 芋殻 荒糠 藁 大豆葉 など。
<山林原野部門>
柿 栗 山椒 実樫 猪肉 鹿肉 竹 松 枯草 など。
<加工品部門>
縄 藁筵(わらむしろ) 茶 渋 漆 など。
これらが公事の対象として現物や銀に換算して納められ、藩収入の基本になっていました。
寛永ごろは比較的裕福で、年収入貢米の1.3倍の蓄えがありました。
そのために「長崎買物」と言う商売にも手を出し、仕入れたものを京都で売りさばいて銭にしていたようです。
しかし、宝永元年(1704)頃から財政が傾き始めます。
幕府から命じられた利根川・荒川改修工事のために、京阪・江戸の商人から318貫を借金したのが発端でした。
その年の8月には、江戸藩邸修理費としてすでに大阪の商人から100貫ほど借りていたので、借金は合計約400貫にのぼりました。
1804年頃にはさらに悪化し、借金は710貫。
藩主一族の生活費を切り詰めるほどになりました。
そして翌年には1136貫突破。
1817年にはついに藩士は減知、百姓は上米、町人には上銀の命令が出されました。
殿様もお侍も百姓も、みんな揃って節約・切り詰め生活に耐えていました。
そこで回復すれば救われたのでしょうが、無情にも弘化(こうか)2年(1845)には4229貫にまで膨れ上がり、財政は火の車を通り越してすでに灰。
追い討ちをかけるは、文久2年(1862)の寅助火事。
城下町の大部分が焼け野原になった上に城の一部も焼失してしまい、大打撃と言うよりまさにトドメの一撃(^◇^);
もはや首が回らないにもほどがある状態になった相良家は、細川藩に金1万5000両の借金を頼み込みますが、あっさりお断りされてしまいます。
金銭関係にはクールな細川さん…。
しかし、大阪の近江屋と薩摩藩が助けてくれたので、這這の体で明治維新を迎えることができたのです。
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
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この大合戦から、相良氏を見てみる。
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