ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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管理人は、「SAGARA」にてネタ化させていただいた部分の史実について、申し訳ない勘違いをしていました。
それをお話しする前に、その部分の正しい史実について書きましょう。
急に話が飛びますが、時は移ろい相良家十代目のころ。
分家が本家を乗っ取ろうとする事件が起こります。
当時の相良宗家当主は、わずか10歳で家督を継いだ、15,6歳の尭頼(あきより)でした。
1448年2月、相良氏分家のひとつである多良木(たらぎ)氏の兄弟、相良頼観・頼仙(よりみ・よりひと)が、尭頼の居城である人吉城に火を放ちました。
びっくり驚いた尭頼は鹿児島に逃げ(母親が鹿児島の島津氏)、頼観は城に留まりました。
ここで長続登場!
もうひとつの分家の城主であった永留(ながとめor永富ながとみ)長続(ながつぐ)は、すぐさま挙兵して人吉城を奪還、頼観を追い出しました。
「お手柄じゃねーか!」と思ったかどうかは知りませんが、長続は鹿児島に避難していた尭頼に帰宅を促しました。
しかし、どういう訳か、尭頼はその誘いを断ります。
その心の内には、反乱を鎮めた功労者である長続に本家の家督を継いで貰いたい、との気持ちがありました。
滅相も無い、と長続が遠慮したため、尭頼は人吉城に帰ります。
…が。
3月28日に尭頼は急死してしまいました。
その後、長続が次期当主に推され、相良家の第11代当主になります。
言うまでもなく多良木の兄弟は討伐され、多良木氏は滅亡しました。
実は相良家にはもうひとつ分家があるのですが、その上村氏は、今回は関わりがないようです。
ですが数代のち、本家といざこざを起こすわけです…★
さて。
この十代当主・尭頼の死によって、本家人吉相良氏の血筋は途絶えてしまいました。
牛好きな人だったらしく、牛の角に衝かれて死んだとか、踏み付けられて死んだとか、「死因が牛ネタ」は尽きないようです。
しかし、尭頼の死は、相良家の歴史の中でも謎のひとつとされています。
総領家の尭頼が人吉に帰還していながら、わざわざ鹿児島の寺に葬られていたり、永留長続が、多良木兄弟の反乱直後にスムーズすぎるほどにスムーズに対応していたり、そもそも多良木の反乱の背景が不透明であったり。
マイナー武将にも謎はあるものですね(笑)。
長くなりましたが、これが史実相良氏の歴史です。
「裏SAGARA」にて、管理人が勘違いしていた歴史を書きます↘
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公