ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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九州は三国志の様相を呈していました。
肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏、そして薩摩の島津氏。
この3氏が、九州の覇権を巡って争っていた時代です。
そんな九州戦国期の末期に火が点いたのが、龍造寺氏・島津氏間でした。
龍造寺氏は、かつて大友氏との佐嘉城攻防戦(1570年8月)で敗れて降伏したのですが、大友氏の支配力が揺らぎ始めると、再び野心を膨らませて勢力拡大を目指しました。
1584年3月、肥前の有馬義純(ありま・よしずみ)が龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)に攻略され、困った義純が島津家当主・義久に援軍を要請しました。
しかし、相手方の龍造寺軍の兵力は3万。
自軍の数はおよそ3000、有馬勢約5000を加えても8000程度にしかなりませんでした。
島津氏は、1572年に起こった木崎原の戦いで、3000の伊東軍に対して300の兵で勝利しましたが、そのときは半数以上が戦死するという大損害を出した上での結果です。
戦は数ではない、と言いますが、ある程度の勝算を得られるような兵数は必要でしょう。
義久が肥前攻略を決断しかねていると、肥後の菊池氏の旧臣、赤星道半(あかほし・どうはん)が義久に出陣を勧めてきました。
実は、道半は龍造寺氏のもとに人質として自分の子供を送っていたのですが、隆信に殺されたことを深く恨んでいたのです。
その報復のために、自分も2000の兵を出し、島津氏側につくと申し出ました。
こうして、有馬氏からの援軍要請と赤星道半の勧めもあり、義久は肥前攻略を決断しました。
この戦の大将は島津家久、伊集院忠棟・新納忠元が副将を務めました。
ちょっと待て、と。
タイトルに『with相良氏』が付いているのに、相良の「さ」の字も出てこないではないか、と。
確かに、前置きが長すぎました。
ここで相良氏登場です(惜しみない拍手を!)。
島津幕下にあった相良氏も、
しかし当主ではなく、的場自休(まとば・じきゅう)が相良勢を率いて出陣したそうです。
当主の忠房がまだ13,4歳と幼かったからでしょうか。
少なくとも、人任せ当主だったから、ではないでしょう(笑)。
そして島津軍と龍造寺軍は沖田畷で戦い、隆信は戦死、敗れた龍造寺氏の衰退が始まります。
戦国時代、合戦で首を討たれた大将はこの龍造寺隆信と今川義元だけだそうですね。
ちなみにこの戦いでは、相良勢の豊永金兵衛(とよなが・きんべい?)が新納氏と先陣争いをしました。
管理人が思うに。
畷なんて、戦う場所ではありませんよ。
そう言うのも、実はベトナムで潔く田んぼにハマりましてね。
田んぼの中の道が雑草だらけで、道と田んぼの境目が判別できず、ズボッと。
水は無いも同然だったので、壊滅的な損害は免れましたけど、格好悪いという精神的な被害は甚大でしたね(^◇^)”
時間に余裕のある方は、その光景を思い浮かべて失笑を漏らしてみてはいかがでしょうか(笑)。
そんなわけで今回は、九州の大合戦では目立っていないけれど、実は頑張って参加しているんだよー、な相良氏をお送りいたしました。 1:46
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きちんと投稿されているのでしょうか(^◇^)"
旧暦とかいうものは置いておいて(笑)、本日9月15日は関ヶ原合戦の日です。
下の記事は、関ヶ原関連の相良氏記事です↓
「相良左兵衛佐の手の者、一番乗り」(別窓)
「犬童清兵衛頼兄 肆~天下分け目の関ヶ原~」(別窓)
辛抱に辛抱を重ねて計画を成功させた家康と、毛利や島津などの大軍を擁しながらも計画倒れをした三成の合戦です。
家康側を東軍、三成側を西軍といいますが、いま、人気が高いのは西軍側のようですね。
西軍の武将は、自軍の負けが確定すると様々な選択をしました。
逃げずに自害する者、落ち延びて捕らえられ、斬首された者、島流しに遭った者。
はたまたキリシタンは、キリスト教で自殺を禁じられているため、わざわざ捕らえられて刑死することを選んだ者もいるようです。
現代の目から見れば、その一本筋の通った姿勢になんらかの憧れさえ感じるのかもしれませんね。
ですが。
当ブログでは、
「徳川の世になろうが、豊臣の世が続こうが、その時代にお家を存続できればどっちの治世だろうが構わない」
という姿勢ばっちこいです(笑)。
それすなわち相良氏。
居間に「御家存続」と書かれた掛け軸を掛けていたのではないか、と思わせるほど、お家存続にはアロンアルファもびっくりの執着心を見せてくれます。
しかし、そんな相良氏も、なりふり構わずお家のために西軍を見限ったわけではありません。
裏切り行動の際、姻戚関係にあった秋月氏には手を掛けませんでした。
寝返らないか、と話を持ちかけ、一緒に企画(?)しました。
相良長毎は、秋月種実(あきづき・たねざね)の娘を嫁にもらっていたのです。
さらに、ともに大垣城を守備していたのは、その娘の兄弟である種長でした。
義兄弟に手を掛けるほうが普通ではないかもしれませんが、当時のことですから、邪魔な者には容赦なく斬りかかったはずです。
それを考えると、相良家もなかなか情のある行動をしたのではないかと思われるのです。
…こじつけ感満載ですね(^◇^);
「勝者が歴史を創る」という言葉通り、家康はその後征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。
そして、以後200年以上の間、彼の血筋による政治が続くわけです。 0:10
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これについても詳しく書きたいところですが、それをしていると確実に明日の試験を落とすので延期します(^◇^);
そんな戦国家法×ピザ・ロイヤルハット=ピザ・サガラシハット。
明らかに駄洒落ネタです。
(画像クリックで拡大)
犬童頼兄がデリバリー・ボーイとして配達に伺います。
オススメは梅ソースピザです。
『ピザ・サガラシハット』の最後に頼房(長毎)の花押を付けてみましたが、つくりが芸術的なので真似できませんでした。
署名の度にこんなものを描くなんて、昔の人は絵心豊かだったんですね(笑)。
話を若干真面目にして、ここで花押ネタをひとつ挙げてみますと。
18代義陽は、晩年になって義陽と名乗るようになる前までは頼房という名前でした。
大友家が「義」の字について色々と文句を言ってきたため、義陽と名乗るまでに12年掛かったそうです。
そして義陽の次男・20代長毎も、徳川家康の11男が元服して頼房と名乗るまでは頼房という名前でした。
親子で同じ名前を使用したわけですが、花押はすこし異なるんです。
おもしろいです。
(画像クリックで拡大)
出典:池田こういち著『肥後 相良一族』新人物往来社
右は義陽、左は長毎の花押です。
個性を発揮しています(笑)。 16:32
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家紋は、公家だけでなく、平安末期に登場した武士たちが「自分の存在の顕示」をするために作り出したものだといいます。
デザインに関して言うと、旗印にも家紋が描かれていますが、もともとは戦場で遠くからでも判別できるように簡素なデザインのものが主流だったそうです。
例をあげるなら、島津の「丸に十字」。
簡素此処に極まれり、でしょう(笑)。
逆に、商標登録されている奥州伊達氏の「竹に二羽飛雀」は複雑すぎます。
それで。
今更ですが、相良の家紋は主に次の2種類があります。
左は「長剣梅鉢」、右は「六つ瓜に七つ引」。
戦国時代までは左を、それ以降は右を使用したといいます。
今回のネタは、左のほうです。
家紋の特徴で分類すると、これは「梅鉢系」という割とそのままな分類に属します(^◇^)。
しかし、なんで梅?
りんごじゃだめなのか(笑)?
…そういうわけで調べてみました。
すると、これ。
なんだか記念品のようです。
1221年、承久の乱が起きたとき、すでに肥後国球磨郡に下向していた相良長頼(相良氏初代)は、北条泰時に属して宇治川の戦いに出陣、武功をたてました。
これを喜んだ北条泰時は、青磁の椀に梅の実5個を盛って酒宴を催し、長頼の功を賞しました。
それを記念して、相良氏は梅を家紋に採用したそうです。
つまり、酒のつまみを家紋にしたってことでしょうか…なんか違うね。
そんなこんなで、今回は相良家の家紋について書いてみました。
以下のサイト氏を参考にさせていただきました。
『風雲戦国史‐戦国武将の家紋‐』www2.harimaya.com/sengoku/index.html
そのなかの『武家家伝_相良氏』www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
遠江相良庄における相良氏の発祥から、関ヶ原の戦いを経て相良氏が人吉藩の近世大名になるところまで書いてあります。
当ブログよりずっと詳しいサイト氏ですよ。 14:53
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義陽(よしひ・よしてる・よしはる)は第17代当主・晴広の子で、1544年2月8日、木上の上田氏館で生まれました。
父の死を機に家督を継ぎますが、義陽の叔父である(晴広は相良分家の上田氏出身)上村頼孝(よりたか),頼堅(よりかた),長蔵(ながくら)が、それぞれの居城である上村城,豊福城,岡本城に拠って義陽に反発する事件が起こります。
3人の叔父は、相良氏領である三郡…球磨,八代,葦北を各々で分領しようと企んでいました。
これは「三郡雑説」といわれています。
しかし義陽は強かった(笑)!
てきぱきと軍を動かし、ついには3人を滅亡させました。
たとえ叔父であろうが、本家であり主家である相良家にたて突く輩には容赦しません。
その後も、周囲の小大名が次々に大勢力によって滅ぼされていく中、義陽はうまく家を運営していきます。
ですが。
薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げた島津氏の勢力には、勝てませんでした。
天正9年、1581年2月。
肥後へと侵略を始めた島津氏は、手始めに水俣城攻略戦を開始します。
緒戦では相良家重臣の深水氏、犬童氏など40名が戦死し、同年9月20日の戦闘では、相良方に160名の戦死者が出ました。
翌21日。
戦国稀に見る、有名なできごとが起こります。
水俣城中で防戦につとめていた深水頼安に向かって、島津方の重臣・新納忠元が
『秋風に 水俣落つる 木の葉かな』
という連歌の発句を矢文に託して射させました。
これを受け取った深水頼安は、
『寄せては沈む 月の浦波』
と返しました。
意味は、『そろそろ水俣城も落ちるんじゃない?』『いやいや、何度来ようと落ちないよ』という内容だそうです。
互いに教養人であったそうですが、内容はまさしく武人。
爽やかな歌からにじみ出る2人の心意気、武士としての勇ましさには、思わずこっちが切腹してしまうくらいです(笑)。
同26日。
頼安はついに開城を決意しました。
翌日、城を明け渡し、城兵とともに退去します。
10月には義陽が島津氏と和睦、ついに相良氏は「島津幕下」に属すことになりました。
11月。
島津家当主・義久は、北九州の大友氏攻略のため、義陽を先鋒として、まず反島津の阿蘇氏の重臣・甲斐宗運(かい・そううん)が拠る御船城攻略戦を命じました。
この命令が、義陽を戦死へと誘いました。
実は、義陽と宗運は古くからの入魂の間柄だったのです。
しかし、義陽が義久との盟約を違えば、相良家は取り潰しになります。
それでも、親友である宗運とは戦いたくない。
義陽は悩んだ結果、宗運との一戦を覚悟しました。
かつて宗運から送られた誓紙を焼き捨て、八代の白木社で、神官に自身の死を祈願させました。
12月1日。
出陣の際、相良軍の軍旗が翻った勢いで楠の枝にひっかかり、出陣の刻限を遅らせなければならなくなるなど、不吉なできごとがありました。
義陽は響ヶ原に布陣します。
しかし、ここは防戦には不利な場所でした。
家臣たちが場所を変えるよう進言しても、義陽は聞く耳をもたず、ここに居座ります。
翌日、義陽の出陣が宗運に知らされますが、彼は当初、信じられませんでした。
「島津の勢力拡大の陰に相良あり」。
宗運は、義陽から送られた誓紙を阿蘇の神池に沈めさせました。
相良軍は、はじめは次々に城を落とし、快勝を重ねました。
阿蘇軍の後方支援を断たせた上で先鋒軍を攻撃するなどして、大勝を収めます。
しかし、阿蘇軍の本隊は軍旗を捲いて相良軍本隊の西北に潜行し、また、遊撃隊は北側に迂回して好機を待っていました。
そして、時機が到来すると。
一斉に鉄砲を放ち、形勢が逆転するほどまでに相良軍を追い込みました。
一旦退いて、本陣を移すよう進言する家臣たちですが、義陽はそれを一蹴、100名近い戦死者を出しました。
12月2日。
次第に敗色が濃くなるなかで、義陽自身は床机に座したまま、敵兵に討たれました。
享年38歳。
義陽の戦死の報に接した甲斐宗運は涙を流し、『これで我が家の滅亡も3年とは持つまい』と落胆したそうです。
さらに、島津義弘も義陽の戦死を悲しみました。
お家の存続と己の友情の間で揺れ、お家を選択した相良義陽。
戦国時代においては当然の行為だったのかもしれません。
が、私情を捨てて自分の公式の立場を尊重することは、今も昔も為しがたいことでしょう。
彼が彼自身を放棄してまで願った「子孫の長久」。
様々な危機に瀕しながらも、相良家は見事永く存続を果たします。
な、長い…(^◇^);
途中で区切ろうとしたのですが、キリが悪くて断念しました。
管理人が特に好きな当主のひとり、相良義陽。
とりあえず、見所だけをピックアップしたつもりです。
そしてそして。
勢いに乗って、『犬童頼兄日記』をはじめました。
完全に遊びです。
一応リンクに置いておきましたが、創作モノが苦手な方はご注意ください。 2:23
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公