ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ひと月ほど前に、肥後相良氏カテゴリーで「青井阿蘇神社と相良と鶏」というタイトルの記事をアップしました。
そのとき「境内に白色レグホンがいた」と書いていますが…本日、その証拠写真(!)をフォルダから見つけ出しました。
撮ったことをすっかり忘れていました(^◇^);
↓これです。
(画像クリックで拡大)
左下のすみに、白色レグホンがいますよね。
なにげに足の速い鶏だったので、神社と鶏を一緒に収めるのは一瞬の勝負でした(笑)。
それに加えて。
神社ですから、御守りも売られていました。
青井阿蘇神社御守り~キジ馬氏のキーホルダーを添えて。
(画像クリックで拡大)
この神社には武家屋敷の次に行ったのですが、門の前で、武家屋敷で見掛けた方々に会いまして。
「神社とかが好きなのか」と訊かれたことも思い出です。
「どっちかって言うと相良氏のほうが好きですね」
…なんて言いません、さすがに言いませんよ(笑)。
しかし、武家屋敷のご主人は。
お客が来たっていうのに、裏で薪みたいなのを割っていたのはおもしろかった。
ぼくしかその場にいなかったので、ご主人を呼びに行きましたけども。
そんな空気が楽しかったです。
話が神社→武家屋敷に逸れてしまいました。
相良氏もよくこの神社に参詣していたと言いますが、そのときから鶏はここをすみかとしていたのでしょうか。
だとしたら、なんだか微笑ましい。
相良牛の次は、相良鶏ですよ。
cock-a-doodle-doo~(英語版 鶏の鳴き声)12:00
↓相良鶏ばっちこい!(押して頂けると、当ブログのランキングがアップします)
にほんブログ村 戦国時代(携帯用リンクです)
父親の義陽の代に島津幕下となり、父親が戦死して兄の忠房が家督を継ぐと、長毎は島津家へ人質として赴きました。
4年後に忠房が病死すると人吉に戻り、鎌倉以来の家督を継ぎます。
そして朝鮮への出兵、関ヶ原の戦いを経て、小大名ながらも、したたかに家を存続させることに成功しました。
そのなか、重臣の横暴への対処に手を焼いたりもしました。
第20代長毎・人吉藩祖長毎は、ひとつの大きな時代の区切りを生きた人と言えるでしょう。
1636年、病床にあった長毎は、5月から6月にかけて3通の遺言状を作成します。
世子の頼寛(よりひろ)宛ての遺言状には、
一.領国が「国境の在所」にあることから、昼夜油断無く奉公向きに万事を心がけること。
一.家中の者が「すりきり(困窮,破産)」の状態にならないように分別をもって、手を差し伸べるべきであること。
一.長秀(頼寛の弟)の身の上について、その方の計らい次第で、分に応じて知行を遣わしてやって欲しいこと。
一.犬童頼兄・頼安・頼章(よりあきら:頼兄の孫)の3人の者共について、予て内々に申し置いた通り、時期を見計らい、分別をもって幕府にその横暴を訴えるべきであること。
一.幕臣の阿倍・渡辺の両名には公儀の内々のことについて、万事ご指南して頂くことがもっともであること。
と書いてあります。
3通のうち2通の遺言状の冒頭には、「万歳々々」とあったそうです。
この言葉に、きっと、「家」存続を成し遂げた長毎の達成感が凝縮されているのでしょう。
1636年6月15日、江戸桜田邸にて、人吉藩祖相良長毎死去。
享年63。
法号は瑞祥院天叟玄高(ずいしょういんてんそうげんこう)。
4名の家臣が殉死しました。 0:00
↓相良氏ばっちこい!(押して頂けると、当ブログのランキングがアップします)
にほんブログ村 戦国時代(携帯用リンクです)
この神社は、相良家第20代当主・長毎が再建したもので、長毎自身もちょくちょく参詣していました。
たとえば。
秀吉の第2次朝鮮派兵の前に、高麗陣中での武運長久と家門安全を祈念したり。
朝鮮在陣中、家臣の争いが悩みのタネだったので、「怨敵退治」 「求麻郡内安全」を祈念する自筆の文章を青井神社などの諸社宛てにしたためたり。
こんな感じで、相良家の歴史の端々に青井阿蘇神社は登場しています。
人吉市を訪ねたとき、此処にも足を運びましたが。
門の重厚さには、威圧感がありましたね。
神社と言うと、勝手ながらスマートなイメージがありますが、此処のはずっしりとしていて…そうですね。
気合いが入っていましたね(笑)。
青井阿蘇神社が国宝になれば、境内を闊歩していた、飼われているのか野良なのか分からない鶏たちも喜ぶことでしょう。
…。
えぇ、鶏が居たんです。
白色レグホンが、鋭い目を光らせながら、こっちに逞しい足取りで向かってきたんです。 1:45
関ヶ原の合戦前、西軍による伏見城攻めのときの台詞です。
相良さひょうえのすけ、と読み、第20代当主頼房(よりふさ)、のちの長毎を指しています。
(余談ですが、改名したのは、徳川家康の11男鶴千代丸…水戸藩祖で光圀のパパ…が元服して『頼房』と名乗ったためだそうです。敵城侵入は早いもの勝ちなのに、名前に関してはえらい人が最優先なんですね(笑))
この合戦は少々特殊で、いざ開戦になっても、西につくか東につくかを決めかねて、洞ヶ峠をきめこもうとしている大名が多かったそうですね。
そんな中、相良氏は最初西軍に属し、東軍の勝利を見るや、寝返った人だということは、もはやさがらファン(笑)の常識となっていますが。
実は長毎くん。
ほんとうは、最初から東軍に属したかったそうです。
ただ、西軍の実質の総大将・石田治部少輔三成(いしだ・じぶしょうゆう・みつなり)が強引に味方に引き込んだため、渋々嫌々、伏見城攻めに参加しました。
実際、西国の諸大名の多くが三成に加担していたので、その流れに逆らえなかったのも理由のひとつです。
それでも、長毎の意中の人は家康でした(←恋ではないよ)。
その気持ちを伝えるために、長毎は徳川四天王のひとり・井伊直政にラブレta…違うよ、書状を送りました。
これで、西軍が勝っても東軍が勝っても、うまく立ち回る手はずが整いました。
伏見城陥落後の8月25日、長毎たちは三成の命令で大垣城に兵を進めました。
そして。
東軍が京・大阪へ向かうことを知った三成は、福原・垣見・熊谷・相良・秋月・高橋らの兵7500を大垣城に留めさせ、小西行長、宇喜多秀家らの軍を連れて関ヶ原に布陣します。
相良くんは居残り組。
そこで歴史が動いた(笑)。
関ヶ原で東軍が大勝した日の翌々日、9月17日。
城を東軍の水野勝成(みずの・かつなり)らが包囲する中、三の丸を守備していた相良長毎、秋月種長、高橋元種が、二の丸を守備していた熊谷直盛、垣見一直、木村勝正らを軍議と偽って誘い出し、殺害。
彼らの首をみやげに、東軍に降伏しました。
12月、関ヶ原の論功行賞がなされ、大垣城明け渡しの功により長毎たちは合戦以前から徳川方だったと認定され、本領を安堵されました。
長毎らと同じく、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋らの評価は様々でしたが、井伊直政の取り成しもあり、相良家は無事にお家を存続させることに成功しました。
「関ヶ原」を読んでいたら、その熱さに誘われて、このときの相良氏の動きも書いてしまいました。
相良長毎のおいしいところ。
この方は、秀吉の晩年に、「豊臣姓」の名乗りを許されているんです。
それだけ秀吉に気に入られていた、ということなのに、いざ決戦となると徳川方についたのは…これぞ快男児ってか(苦笑)?
江戸時代の武士とは違い、戦国時代の武士は「義より実利」だったそうですが、彼もまさに典型かもしれませんね。
さてさて。
連休終了後、しばらく間があいての投稿となりました(しかも長文…)。
相良氏の気質を受け継いだような、マイペースブログ。
歴史ブログ村に参加させて頂き始めましたので、のんびりながら、相良氏の知名度を上げる与力にでもなれればいいな、と思っております。
…。
野望かな(笑)? 4:25
永い日本の歴史を語る、国家機密…じゃない国宝級の書物・大日本古文書。
その中の2冊が、「相良家文書」なのはご存知の通りです。
いったいどんな本なんだろう?
なにが書かれているのだろう?
気になりますよねー…と言うわけで。
先週の土曜日、相良家文書を読むために、県庁所在地にある図書館に行ってまいりました。
相良家文書は広島大学にしか置かれていない、と思い込んでいたので、近くの図書館に蔵されていたのには驚かされました(笑)。
…探せど探せど、見つからない。
歴史関連の本コーナーにあるようなのですが、目当ての本がある気配はまったくありません。
ラチがあかないので、カウンターの方に訊いてみたところ、
「あっ、塩見文庫ですね」(大日本古文書は塩見文庫でした)
そう言って奥に入り、鍵を取ってくると、関係者以外立ち入り禁止っぽい部屋に入っていきました。
待つこと5分程度。
部屋から出てきたカウンターの方。
「館外持ち出し禁止ですので、ここでのみ閲覧願います」
それは知っていましたけども。
鍵とか別部屋とか、そんなVIP待遇を受けるような本だったんですか!
お手を煩わせてしまったな、と思いながら閲覧コーナーへ。
…読めない。
全部漢字でした。
当たり前だよ、と思われた方…管理人はそんなことも知りませんでした orz
漢文の授業を受けているような、懐かしい気分になりましたよ(笑)。
ほかの本で見て知っている文書については、なんとなく文意は分かりましたが、その他はさっぱり。
結局、所々に出てくる花押(その人専用のハンコみたいなもの)を見て楽しんで、素直に本を返却しました。
収穫…そうだなぁ。
専門家の世界の歴史に触れられて、なんだか賢くなったように思えました(なんだそれ)。
もちろんですが、相良家だけでなく、島津氏、菊池氏、大友氏などからの書状も載っていました。
目の前にある文章が創作ではなく、昔の人がほんとうにしたためたものだと思うと、どんな気持ちでこれを書いたのか、どんな状況下で言葉を選んだのか、色々想像が膨らみました。
書き手は、4、500年も経て、こんな若僧に見られるとは思ってもいなかったかな。
とにもかくにも。
未熟者は、まず一般向けの本をしっかり理解するところから始めないとなぁ。
いま欲しい本。
・人吉市史 第1巻
・関が原(司馬遼太郎)
・島津奔る
ブログのテンプレートを、自分で作ろうとして描いたキジ馬氏です。
持っている旗の模様は…言うまでもありませんね(笑)?
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
歴史ブログ村(PC用リンクバナー)
ランキングに参加させていただいています
歴史ブログ村(PC用リンクバナー)
肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公