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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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歴史について調べていると、どうしても出演者が男ばかりになってしまいます。
たまには華を添えて、むさ苦しさを解消したい(笑)!
…と言うわけでして。
今回は、初の女の子主人公です。
名前は千代菊ちゃん。
彼女は相良義陽の奥さんですが、ただのお嫁さんではなかったのです。
それはどういうことか、を語る前に、相良家家系図についておさらいしてみたいと思います。

初代長頼の三男坊・頼俊(よりとし)の流れを汲む人吉相良家の血統が途絶えたのは、10代尭頼の頃です。
その跡目を継いだのは、長頼のご長男・頼親(よりちか)の流れを汲む山田永留氏の長続でした。
つまり、10代目から11代目に移行するとき、家督継承者が人吉相良氏流から山田永留氏流へ転換された、ということですね。
そして、さらに。
16代目相良義滋(よししげ)の頃、家督継承抗争への協力の見返りとして、長頼の四男坊・頼村(よりむら)の流れを汲む上村氏流の上村頼興は、自身の長男を義滋の養継嗣とすることを約束させました(義滋の嫡男・満次郎丸は夭逝していた)。
かくして、頼興は、自身の子・頼重(よりしげ:のちの晴広)を相良家17代目当主にさせることに成功します。

さて。
そろそろ千代菊ちゃんの出番です。
彼女は義滋の四女で、晴広の長男・義陽に嫁しました。
千代菊ちゃんの家系は、山田永留氏流。
義陽の血筋は、上村氏流。
…ということは。
10代目尭頼の頃に見られた、家督継承者の血筋の転換がここにも現れた、ということです。
千代菊ちゃんは、永留氏と上村氏を繋ぐ、大きな紐帯としての役割を果したのですよ。
めでたい めでたい(笑)。
ほら、ただのお嫁さんではないでしょう?
・・・え、そうでもない?

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本日2月22日、キリのいい日付です。
最近どうやら、武将の名前に侵されているようです。
「光景(こうけい)」を「みつかげ」と読んでしまいます。
…はい。
実はですね。
先日、司馬遼太郎氏著の「街道をゆく3-陸奥のみち、肥薩のみち ほか-」を読んでみました。
普段記事を書くとき、とある本を参考にさせて頂いているのですが、その冒頭にこの本の文が引用されていたのです。
当ブログのいちばん最初の記事に書いた「670年も家を継続させたのに、司馬遼太郎氏には『それは偶然だ』と言われていたり」は、冒頭を参考にした記述、つまり「街道をゆく」の内容です。
さて。
司馬氏は実際、相良氏の家系持続をどれだけ「偶然だ」と述べているのか。
その辺りを確かめてみました。

…なかなか徹底的に、偶然を強調していました。
あまり語るとネタばれになってしまいますので、詳細は書きかねますが、氏は、「人吉盆地という、外界との交通を遮断しているかのごとき地形が相良氏を永く守りに守ってきた(本文より)」と考察されています。
隠れ里のような土地であったから、飛び抜けた英雄を輩出せずとも、長きに渡って生き残ることが出来た。
そして司馬氏は、「求麻郡略史」の『時に四方を攻略し、勢(いきおひ)不可なれば則ち入りて之を守る』を引用、そのような相良氏の動態を日本のそれと比較し、類似していると述べています。
小さな一族の生き様を、国なんていう大きなものと比べて下さるとは(笑)。

のちに話は薩摩に移り、島津氏や西郷隆盛などに焦点が合わせられます。
少し面白かったのは、司馬氏の目線の違いですね。
薩摩の人物を語るときは、一人前の人物として敬いを込めて見ているようなのですが、相良氏のときは、半人前の小僧を前にするような、見下げる感のある目線に思えました。
まぁ薩摩のくには、戦国期も、江戸期も、果てには明治維新時も、勇壮かつ自立心旺盛なくにでしたからね。

そう言えば、今週水曜20日のNHK「そのとき歴史が動いた」で、加藤清正について放送されていました。
「肥後」「熊本城」という言葉にそそられて観てみましたが、うっかり相良氏が出て来る場面は一度もありませんでしたorz。
管理人が贔屓にしている長続を出せとは言いませんから、友情と家系存続のはざまで倒れた義陽や、島津幕下から独立し、人吉藩祖として活躍した長毎(ながつね)くらい、出してくれないかな…。
マイナー武将のテレビ出演を願う…。
(マイナー武将とは言わせない、と言ったのは誰だ←笑)

今日は2月15日ですね。
一般的には、バレンタインデーの次の日、または毎月15日のお菓子の日、中華の日とされています。
…が。
当ブログから見ますと、今日はある方の忌日なのですよ。
これが分かったら、さがら検定3級合格(そんな検定ない!)(笑)!
…はい。
本日は、相良家第11代当主・長続(ながつぐ)の命日なのです。
彼は1468年に亡くなったので、今年で540回忌です。
享年58歳、息子の為続(ためつぐ)に家督を譲った翌年の死でした。

確かに、長毎も晴広も義陽もいい(全員長続以降の当主)。
でも、長続が本家を乗っ取らなっ…失礼、本家を護らなかったら、のちの彼らの活躍は有り得なかった。
(晴広は相良氏分流の上村氏・上村頼興(よりおき)の子供で、養継嗣だけれども。)
長続のおかげで、分裂していた球磨郡内を統一できた。
影は薄いけれども、相良家の長い歴史の中で、長続は節目とも言える役割を果しているように思えるのです。

本日は、そんな相良長続の命日。
祝うわけにはいかないけれども、相良氏ファンなら、今日1日は頭の片隅に覚えておいてみませんか?
…長続万歳!←管理人は色々と大丈夫だろうか。

※さがらおまけ情報
長続の次代・為続は三男坊です。
どうして兄2人を無視して、三男坊が跡を継いだのか。
それは、長男次男が「暗愚」であったから。
君主となるには、その素質に欠けていたからだそうですよ。
本家の長男に生まれても、やはり実力・能力で切り捨てられたりするのですね…。

相良氏ファン並びにファンサイトなら、見逃せない頁を見つけました。
相良神社 相良護国神社(別窓が開きます)
http://homepage3.nifty.com/mr-jinjya/kumamoto-hitoyoshi-sagarajinjya.htm
とりあえずクリックしてみてください(笑)。
相良家初代から第36代目までの名前が並んでいます。
見えにくいですが、第11代目が長続ですね。旧字体の「續」になっています。
さて。
前回も書きましたとおり、相良家生粋の血筋は10代目尭頼までです。
その後は、分家の永留氏、上村氏から養子を取りながら家を保持していました。
しかし、28代目晃長(みつなが-秋月家からの養子)から当主の早世が目立ち始めます。
晃長は僅か11歳で亡くなってしまい、もちろん、この年齢では継嗣などいません。
いたら、かなりのやんちゃ坊主です。
この時代、跡継ぎが決まる前に当主が亡くなることは大変なことでした。
幕府から改易(武士の身分、所領や屋敷・城を剥奪されること。家臣は浪人になることが多い)を受けてしまうからです。
困った相良家。
取った処置は、他家から頼完(よりさだ-享年19)を連れてきて、晃長が頼完と改名したことにし、なんと28代目と29代目を同一人物にして系図を改めたのです。
涙ぐましい努力です。
それ以降の当主は、福将(とみもち-享年20),長寛(ながひろ-享年63),頼徳(よりのり-享年83),頼之(よりゆき-享年53),長福(ながとみ-享年32),頼基(よりもと-享年45),頼紹(不明)…となっています。
あまり当主がコロコロ変わると、領地の政情不安にも繋がりますから、避けたい事態です。
しかし頼徳、長生きですね。
ちなみに、16代目から戦国大名化し、20代目から人吉藩主としての相良氏だったそうです。
廃藩後は、相良氏は旧華族に列し、子爵家として存在しました。

いいですね、相良神社。
ぜひ一度、歴代当主の方々にお会いしたいものです。

管理人は、「SAGARA」にてネタ化させていただいた部分の史実について、申し訳ない勘違いをしていました。
それをお話しする前に、その部分の正しい史実について書きましょう。

急に話が飛びますが、時は移ろい相良家十代目のころ。
分家が本家を乗っ取ろうとする事件が起こります。
当時の相良宗家当主は、わずか10歳で家督を継いだ、15,6歳の尭頼(あきより)でした。
1448年2月、相良氏分家のひとつである多良木(たらぎ)氏の兄弟、相良頼観・頼仙(よりみ・よりひと)が、尭頼の居城である人吉城に火を放ちました。
びっくり驚いた尭頼は鹿児島に逃げ(母親が鹿児島の島津氏)、頼観は城に留まりました。
ここで長続登場!
もうひとつの分家の城主であった永留(ながとめor永富ながとみ)長続(ながつぐ)は、すぐさま挙兵して人吉城を奪還、頼観を追い出しました。
「お手柄じゃねーか!」と思ったかどうかは知りませんが、長続は鹿児島に避難していた尭頼に帰宅を促しました。
しかし、どういう訳か、尭頼はその誘いを断ります。
その心の内には、反乱を鎮めた功労者である長続に本家の家督を継いで貰いたい、との気持ちがありました。
滅相も無い、と長続が遠慮したため、尭頼は人吉城に帰ります。
…が。
3月28日に尭頼は急死してしまいました。
その後、長続が次期当主に推され、相良家の第11代当主になります。
言うまでもなく多良木の兄弟は討伐され、多良木氏は滅亡しました。
実は相良家にはもうひとつ分家があるのですが、その上村氏は、今回は関わりがないようです。
ですが数代のち、本家といざこざを起こすわけです…★

さて。
この十代当主・尭頼の死によって、本家人吉相良氏の血筋は途絶えてしまいました。
牛好きな人だったらしく、牛の角に衝かれて死んだとか、踏み付けられて死んだとか、「死因が牛ネタ」は尽きないようです。
しかし、尭頼の死は、相良家の歴史の中でも謎のひとつとされています。
総領家の尭頼が人吉に帰還していながら、わざわざ鹿児島の寺に葬られていたり、永留長続が、多良木兄弟の反乱直後にスムーズすぎるほどにスムーズに対応していたり、そもそも多良木の反乱の背景が不透明であったり。
マイナー武将にも謎はあるものですね(笑)。

長くなりましたが、これが史実相良氏の歴史です。
「裏SAGARA」にて、管理人が勘違いしていた歴史を書きます↘

こよみ
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2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました


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身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
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