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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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ひと月ほど前に、肥後相良氏カテゴリーで「青井阿蘇神社と相良と鶏」というタイトルの記事をアップしました。
そのとき「境内に白色レグホンがいた」と書いていますが…本日、その証拠写真(!)をフォルダから見つけ出しました。
撮ったことをすっかり忘れていました(^◇^);

↓これです。
aoiaso-shomen-blog.jpg
(画像クリックで拡大)
左下のすみに、白色レグホンがいますよね。
なにげに足の速い鶏だったので、神社と鶏を一緒に収めるのは一瞬の勝負でした(笑)。

それに加えて。
神社ですから、御守りも売られていました。
青井阿蘇神社御守り~キジ馬氏のキーホルダーを添えて。
aoiaso-with.kijiuma.blog.jpg
(画像クリックで拡大)

この神社には武家屋敷の次に行ったのですが、門の前で、武家屋敷で見掛けた方々に会いまして。
「神社とかが好きなのか」と訊かれたことも思い出です。
「どっちかって言うと相良氏のほうが好きですね」
…なんて言いません、さすがに言いませんよ(笑)。

しかし、武家屋敷のご主人は。
お客が来たっていうのに、裏で薪みたいなのを割っていたのはおもしろかった。
ぼくしかその場にいなかったので、ご主人を呼びに行きましたけども。
そんな空気が楽しかったです。

話が神社→武家屋敷に逸れてしまいました。

相良氏もよくこの神社に参詣していたと言いますが、そのときから鶏はここをすみかとしていたのでしょうか。
だとしたら、なんだか微笑ましい。
相良牛の次は、相良鶏ですよ。
cock-a-doodle-doo~(英語版 鶏の鳴き声)12:00

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本日6月15日は、相良家第20代当主長毎の命日です(求麻外史。徳川実紀では同13日)。
父親の義陽の代に島津幕下となり、父親が戦死して兄の忠房が家督を継ぐと、長毎は島津家へ人質として赴きました。
4年後に忠房が病死すると人吉に戻り、鎌倉以来の家督を継ぎます。
そして朝鮮への出兵、関ヶ原の戦いを経て、小大名ながらも、したたかに家を存続させることに成功しました。
そのなか、重臣の横暴への対処に手を焼いたりもしました。
第20代長毎・人吉藩祖長毎は、ひとつの大きな時代の区切りを生きた人と言えるでしょう。

1636年、病床にあった長毎は、5月から6月にかけて3通の遺言状を作成します。
世子の頼寛(よりひろ)宛ての遺言状には、
一.領国が「国境の在所」にあることから、昼夜油断無く奉公向きに万事を心がけること。
一.家中の者が「すりきり(困窮,破産)」の状態にならないように分別をもって、手を差し伸べるべきであること。
一.長秀(頼寛の弟)の身の上について、その方の計らい次第で、分に応じて知行を遣わしてやって欲しいこと。
一.犬童頼兄・頼安・頼章(よりあきら:頼兄の孫)の3人の者共について、予て内々に申し置いた通り、時期を見計らい、分別をもって幕府にその横暴を訴えるべきであること。
一.幕臣の阿倍・渡辺の両名には公儀の内々のことについて、万事ご指南して頂くことがもっともであること。
と書いてあります。

3通のうち2通の遺言状の冒頭には、「万歳々々」とあったそうです。
この言葉に、きっと、「家」存続を成し遂げた長毎の達成感が凝縮されているのでしょう。

1636年6月15日、江戸桜田邸にて、人吉藩祖相良長毎死去。
享年63。
法号は瑞祥院天叟玄高(ずいしょういんてんそうげんこう)。
4名の家臣が殉死しました。 0:00

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hisatsu-blog.jpg
(画像クリックで拡大)
武将想像絵第4弾…とする。
上は加藤清正、下は島津義弘です。
朝鮮の役で、その圧倒的な強さから「鬼」と呼ばれ、恐れられたコンビですね。
らくがきで終えるつもりだったのに、この下手の横好き管理人は色付けまでやりました…暇人め(笑)。
たぶん、中島みゆき氏の「銀の竜の背に乗って」を聴きながら描いたのがいけなかったんだ。
彼女の声は耳に心地いいから、つい遊びもはかどってしまうのです。

それにしても。
この2人…加藤家と島津家が本気でぶつかったら、九州の勢力図はどうなっていたでしょうね。
果たして勝負はついたのでしょうか。
清正は豊臣系の兵をたくさん引っ張って来れそうですから、数は島津軍の何倍でも用意できたでしょう。
対して島津は、類まれに見る団結力と強さを誇る軍団ですから、数の多少などたいした問題ではなかったでしょう。
うん…勝敗が見えない。
ぜひ一度、戦ってみて欲しかったなぁ。 2:02

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深水父子 出奔。

犬童頼兄の勢力の増大に抵抗できなかった深水頼蔵は、ついに人吉の地を去ります。
長毎とともに伏見から帰るとき、彼は球磨には戻らず、(頼蔵のお祖父さんである)宗方以来なじみの深い佐敷(さじき)に行き、出奔して肥後の加藤清正を頼りました。
これを機に、父の織部(おりべ)も出奔。
彼らが逃げ出したのを見た頼兄は、2人の妻子を捕らえ、人吉城中などに監禁します。
湯前に居た竹下氏(以前、犬童氏討伐を企んだ人たち)が妻子の奪還を目論みますが、むなしくも失敗に終わりました。
犬童氏にスキ無し(笑)。
そして結局、頼兄の命令を受けた犬童久右衛門によって、深水氏一党73人は殺害されました。

その仕打ちを「頼兄の横暴」とした深水頼蔵は、「私怨」として伏見に訴え出ました。
石田三成は頼兄を召喚し(召喚魔法か←笑)、頼蔵と一緒にその行為…一党殺害について詰問しました。
犬童頼兄は、
「一党の処断は、自分が勝手に判断して行ったものではありません。主君長毎の命によって為したのです」
と答えます。
現に、長毎は頼兄に深水氏討伐の命令を書いた文書を渡していましたし、頼兄はそれを三成に提出しました。

これ以上どうしようもないほどの証拠を出されてしまった深水頼蔵。
不利は不利だけれど、不利どころじゃない不利っぷりですよ。
もはや勝ち目なし、と悟った頼蔵は、法廷から逃走するほどだったそうです。

それから改めて、三成から頼兄に頼蔵追捕の許可状が与えられました。
これで、より堂々と頼蔵を攻められるようになった頼兄。
しかし頼蔵は頼兄の追捕を逃れ、朝鮮に行く清正軍に従って、蔚山(ウルサン)城の攻防戦で戦死しました。

犬童・深水両一族の対立は、一方の死亡という結末で終わりました。

こうして、長毎政権下の犬童・深水の「両輪」補佐体制は崩れ去り、砂礫となり、犬童休矣・頼兄父子の独占体制がはじまります。
加藤清正と石田三成の仲が悪かったことは有名ですが、清正を頼った頼蔵と、三成を頼った頼兄の対立構図は、彼らトップクラス武将の抗争の一端にも持ち込まれた、とも言えるそうです。
地方の小大名の家臣ごときが、おっそろしいものに影響を与えたのですねー(笑)。

「諸人が憎しみを持っても、顧みないほどの御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者なのだ」

深水一族との対立に勝利した頼兄の言葉です。
自信に満ちている様子がうかがえます。
「殿様の御ため」を合言葉に働き、その結果、ついに自分が権力の中枢に達した。
そんな達成感を秘めているようにも思えます。
しかし。
それと同時に、彼はこのような言葉も残しているのです。

「自分には御家中では気心の知れた人は一人もいない」

きっと頼兄は、家中から冷ややかな目で見られていたのでしょう。
管理人から見ても、頼兄は少々強引で強欲な人に思えます(それゆえに好きですけど)。

孤独な権力者 犬童頼兄。
彼は家中の視線にもめげず、これからも彼らしい舞台を披露してくれます。
次回、「犬童清兵衛頼兄 肆」では、関ヶ原の合戦時の頼兄について書いていきます。 4:08

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石田三成は、自身が掲げる義戦に「建て前」を抱えていた。
本音を晒せば、彼は早く豊臣政権が終わることを願っていた。
しかし、豊臣政権の五奉行筆頭である自分までもが家康になびいては、豊臣家の面目は丸潰れになるであろう。
だから、豊臣家防衛のための戦を仕掛けた。

そんなことを、司馬遼太郎「関ヶ原」の最後に、黒田官兵衛(如水)が言っています。

合戦後、落ち延びた三成は「義」と「利」について考えます。
義に味方せず、利に走った東軍諸将を憎くおもいました。
しかし、自身は義戦と言って諸将を集めようとしたが、実際、彼らを招くためのえさには、大封という「利」を用いたではないか、と矛盾に気付きます。

「人は義で動くものではない。利で動くものだ」
という言葉は、小説中に何度も出てきます。
義と利。
難しい話です。
義をとれば己の美徳に酔えますが、その身を滅ぼすことは必至でしょう。
利をとれば己や子孫の繁栄はほぼ確約されますが、保身をきめこんだ己に醜さを感じることでしょう。
それでも三成は義をとりました。

「あいつは成功した」

と官兵衛は言いました。
三成のような寵臣までもが簡単に家康のもとに走れば、世の人々はけじめを失い、世の姿はくずれただろう、と。
「その点で、三成はじゅうぶん成功した」

世の姿を保つために彼はわが身を投げ出し、自分は滅びたが世の形は失われずに済んだ。
死んだら何にもなりませんが、そういう陰に隠れた、誰にも気付かれないような水面下の勝利を得ることも人生の楽しみかもしれません。
それだけ器量が大きく、さらに知恵もなければできないことですけれど。
単純な管理人は、その格好よさと男らしさに憧れました。 23:32

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身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
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