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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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なんとも情けないタイトルですね orz

頼兄くんね、意外に奥が深いのですよ。
彼が関与した辺りの歴史を振り返ってみますと。
まず18代義陽が戦死して、19代目になる長男が跡を継いで…更にその跡を次男坊の長毎が継いで…秀吉の朝鮮出兵がこれまた長い。長い。長い。
それから関ヶ原の合戦になだれ込み…東軍西軍のもつれあいで…そこでようやく、頼兄くんが本格デビューですから…気が遠くなる、というよりなった(笑)。

…あまりにも情けないので、話題を変えましょう。
管理人逃亡紀行のまとめ頁が、着々とできつつあります。
現在、使用写真枚数は49枚です。
スキャナのある環境に移ったら、どっさり70枚程度増える予定。
すごく気持ち悪い量ですねー。
今のところ、墓地の写真に霊とかが写っている様子もないので、遠慮なく全部HTMLファイルにぶち込みますよ。
すごく気持ち悪いサガラバカですねー(言っちゃった)。

忘れていました。
わざわざPCを立ち上げたのは、これを言いたかったからですよ。
今日は相良家第10代尭頼公の命日です。
当ブログでは「あきより」としていますが、「たかより」とも読むそうです。
この人物に関しては、以前「長続氏ごめんなさい」辺りでつらつらと書きましたよね。
牛が好きで、牛に衝かれて死んでしまったという噂の、うら若き16歳。
そんな彼の命日には…そうですね、焼肉でも楽しみましょうかね(もちろん相良牛で)。

…という訳でして。
頼兄くんについての記事は、も少しお待ちください。
ごめんなさい。ほんとごめんなさい。
以上、頼りないSAGARA BLOGの頼りない管理人、某Nでした。

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・・・略して、その名も『犬童清兵衛頼兄(いんどうorいぬどう・せいべえ・よりえ)』。
戦国末期、関が原の頃に活躍し、相良家を近世大名に押し上げた名臣。
のちに、当時の相良家当主・第20代長毎(ながつね)から、主君と同じ相良姓を賜った信頼厚い家臣。
しかし、時代の流れに巧みに乗り、乱世を押し切った彼の最期は、肥後は人吉から遙か彼方、一面雪景色の津軽のくにで迎えられました。
領内で次第にふくらんだ彼の権力は、彼を専横に走らせ、そして自らの主君により江戸幕府に訴えられたのち、津軽藩お預けという厳しい処分を受けることになります。
清兵衛の転落人生は、彼の一族にも悲劇をもたらしました。
主君の仕打ちに対して不満を持った清兵衛の一族が反乱を起こし、一族121人全員が死亡。
屋敷も焼打ちにされました。
そんな屋敷跡から見つかった、清兵衛親子の不思議…。
次回より、数回に渡って犬童清兵衛頼兄についてお送りします。

予告で終わりってどうよ(・_・;)。
…いや、それと言うのも。
現在、逃亡紀行で撮った写真群の整理中なのです。
凝り性なのか、単なる相良氏マニアなのか知りませんが、自分で勝手に作業を細かくして、それに翻弄されている状態です。
笑って(笑)。
まぁこれも言い訳に過ぎないわけですから、ブログのほうも頑張ります。
それでは、次回から頼兄くんシリーズを展開します。
乞うご期ta…いや、いつも通りの目で見てやって下さい(苦笑)。

「私たちがかたって 裁判ば すっとです」。
市内の裁判所に、こんな看板が掲げられていました。
なにが「すっ」とするのかと思いましたが、方言でしたね。

と言うわけで、土曜日、どういう訳か無事無難に帰って参りました(笑)。
一言で感想を表すなら、「市名どおりのまち」。
人吉。
その名前の通り、人に吉がありました。
道端や名所で出会う人擦れ違う人、みんな優しくて人懐こい。
「こんな居心地のいい町があったのか」との感心も過言にあらず。
それにね。
町の中の所々に、さり気なく相良家家紋が潜んでいました。
面白すぎ。
もちろん、ブログ運営のためになる知識もたくさん得られましたよ。

逃亡紀行の記録は、毎度の如く「B-spirit」内としての頁にまとめて、ブログからは、リンクよりその頁に飛べるようにしたいと思います。
設置は4月初旬以降になると思います。
設置完了の際はご連絡申し上げますので、ぜひ足をお運びください。

それにしても。
相良家代々の中でも、初代長頼だけ墓地正面に特大の墓、という扱いなのですが。
まさか、墓地前の寺(相良家菩提寺・願成寺)のお坊さんが来て、長頼の墓の前でお経をあげ始めるとは予想もしていませんでした。
ビビったわ(笑)!
ちなみに、墓地には80分ほど居ました。
人吉市に向かう次の電車が1時間半後だったし、他に行くところも無かったので。
ずらりと並ぶ代々の墓同様、管理人まで苔蒸すかと思いました。

添付した写真は、人吉市の民芸品「キジ馬」です。
なかなか可愛らしいです。
0febb522.JPG

えー。 現在熊本です。 もう少しで人吉市に到着します。 では、行って参ります。

歴史について調べていると、どうしても出演者が男ばかりになってしまいます。
たまには華を添えて、むさ苦しさを解消したい(笑)!
…と言うわけでして。
今回は、初の女の子主人公です。
名前は千代菊ちゃん。
彼女は相良義陽の奥さんですが、ただのお嫁さんではなかったのです。
それはどういうことか、を語る前に、相良家家系図についておさらいしてみたいと思います。

初代長頼の三男坊・頼俊(よりとし)の流れを汲む人吉相良家の血統が途絶えたのは、10代尭頼の頃です。
その跡目を継いだのは、長頼のご長男・頼親(よりちか)の流れを汲む山田永留氏の長続でした。
つまり、10代目から11代目に移行するとき、家督継承者が人吉相良氏流から山田永留氏流へ転換された、ということですね。
そして、さらに。
16代目相良義滋(よししげ)の頃、家督継承抗争への協力の見返りとして、長頼の四男坊・頼村(よりむら)の流れを汲む上村氏流の上村頼興は、自身の長男を義滋の養継嗣とすることを約束させました(義滋の嫡男・満次郎丸は夭逝していた)。
かくして、頼興は、自身の子・頼重(よりしげ:のちの晴広)を相良家17代目当主にさせることに成功します。

さて。
そろそろ千代菊ちゃんの出番です。
彼女は義滋の四女で、晴広の長男・義陽に嫁しました。
千代菊ちゃんの家系は、山田永留氏流。
義陽の血筋は、上村氏流。
…ということは。
10代目尭頼の頃に見られた、家督継承者の血筋の転換がここにも現れた、ということです。
千代菊ちゃんは、永留氏と上村氏を繋ぐ、大きな紐帯としての役割を果したのですよ。
めでたい めでたい(笑)。
ほら、ただのお嫁さんではないでしょう?
・・・え、そうでもない?

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