マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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来月11月11日と29日は、サイトB-spiritとブログSAGARA BLOGの設置日です。
去年の今頃は忍者ツール氏に登録して、登録後はどうするべきかあたふたしていましたね(笑)。
そんなこんなで1年経ち、いまはmixiで相良氏コミュニティを立ち上げようか否かを検討しております。
ブログもろくに更新できない人間が、コミュニティを管理できるのかと言うご意見はご尤もでございます<(_ _)>
しかし!
mixiなら、参加者様がトピックを立てて盛り上がることもできる!
管理者がダメ人間でも、参加者様の、参加者様による、参加者様と相良氏のためのコミュニティができあがるのではないでしょうか。
…まぁ…相良氏みたく建て前はやめましょう、本音を出しましょう。
訪問してくれる方々がいらっしゃる様子を見ますと、管理人同様、相良氏に関心を持っておられる方は多いことがわかります。
そこで、皆さんは相良氏のどこに魅かれているのかを知りたいと思うのです。
先日、「日本酒おいしいじゃん~」と呑んでいたら死線越えした管理人が言えることではありませんが、居酒屋感覚で気軽に語り合う場が欲しいなと思ったわけです(あれは醜態晒す寸前だと思いました)。
ただ、mixiは1ヶ月以上コミュニティの参加者が1人だと自動的に削除されるのです。
それはさびしい。
と言うわけでして。
大変恐れ入りますが、コミュニティ設立の暁には参加してやるよ、という方がいらっしゃいましたら、さがら書簡やコメントに「あ」でも「お」でも入れて送信していただきたいと思います。
誰も居なかったら?
立てません。
それだけのことですから、お気軽に。
どーでもいいことですが、管理人はキジ馬with相良家家紋画像、名前「某N」でmixiに住んでいます。
うわぁ要らない情報。 0:58
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去年の今頃は忍者ツール氏に登録して、登録後はどうするべきかあたふたしていましたね(笑)。
そんなこんなで1年経ち、いまはmixiで相良氏コミュニティを立ち上げようか否かを検討しております。
ブログもろくに更新できない人間が、コミュニティを管理できるのかと言うご意見はご尤もでございます<(_ _)>
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mixiなら、参加者様がトピックを立てて盛り上がることもできる!
管理者がダメ人間でも、参加者様の、参加者様による、参加者様と相良氏のためのコミュニティができあがるのではないでしょうか。
…まぁ…相良氏みたく建て前はやめましょう、本音を出しましょう。
訪問してくれる方々がいらっしゃる様子を見ますと、管理人同様、相良氏に関心を持っておられる方は多いことがわかります。
そこで、皆さんは相良氏のどこに魅かれているのかを知りたいと思うのです。
先日、「日本酒おいしいじゃん~」と呑んでいたら死線越えした管理人が言えることではありませんが、居酒屋感覚で気軽に語り合う場が欲しいなと思ったわけです(あれは醜態晒す寸前だと思いました)。
ただ、mixiは1ヶ月以上コミュニティの参加者が1人だと自動的に削除されるのです。
それはさびしい。
と言うわけでして。
大変恐れ入りますが、コミュニティ設立の暁には参加してやるよ、という方がいらっしゃいましたら、さがら書簡やコメントに「あ」でも「お」でも入れて送信していただきたいと思います。
誰も居なかったら?
立てません。
それだけのことですから、お気軽に。
どーでもいいことですが、管理人はキジ馬with相良家家紋画像、名前「某N」でmixiに住んでいます。
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一昨日800訪いを突破いたしました。
ありがとうございます。
最近新しい情報源を見つけましたので、戦国に限らず近世の相良氏についても書いていきたいと思います。
これでブログの内容に幅やら厚みやらが出ると良いのですが(^◇^)
それでは、今回は有名人お宅訪問(笑)第2弾をお送りいたします。
備前堀を抜け、竹の丸・肥後六花園あたりに出ました。
ここの広さだけで人吉城二の丸ぶんくらいはありそうです。
(画像クリックで拡大)
(画像クリックで拡大)
飯田丸五階櫓。
この立派さで櫓と言い張る加藤清正公に乾杯。
(画像クリック)
天守閣を見る前に、やはり熊本城と言えば武者返し!
きれいなすべすべ肌の石垣を登られるような武者はどこにもいない。
武者返しを堪能しつつ、バリアフリーな坂道つき階段を上っていきますと…。
ついに熊本城本体に到着です。
(画像クリックで拡大)
黒基調のクールな色遣いが格好いい、しかも難攻不落の熊本城。
西南戦争時のいかなる近代兵器をも物ともせず、かの西郷隆盛に「清正公には勝てなかった」と言わせた城です。
もしここが落ちていたら、この戦争の勝者は薩軍になっていたかもしれませんね。
おまけ。
(画像クリックで拡大)
人吉城跡の御下門階段。
熊本城(隈本城)が記録に初めて現れるのは、14世紀の南北朝期ごろ。
のちに色々な人物が入城しますが、現在の熊本城の姿になったのは1607年頃と言われています。
対して人吉城は、1200年前後にはすでに存在していました。 8:47
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ありがとうございます。
最近新しい情報源を見つけましたので、戦国に限らず近世の相良氏についても書いていきたいと思います。
これでブログの内容に幅やら厚みやらが出ると良いのですが(^◇^)
それでは、今回は有名人お宅訪問(笑)第2弾をお送りいたします。
備前堀を抜け、竹の丸・肥後六花園あたりに出ました。
ここの広さだけで人吉城二の丸ぶんくらいはありそうです。
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飯田丸五階櫓。
この立派さで櫓と言い張る加藤清正公に乾杯。
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天守閣を見る前に、やはり熊本城と言えば武者返し!
きれいなすべすべ肌の石垣を登られるような武者はどこにもいない。
武者返しを堪能しつつ、バリアフリーな坂道つき階段を上っていきますと…。
ついに熊本城本体に到着です。
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黒基調のクールな色遣いが格好いい、しかも難攻不落の熊本城。
西南戦争時のいかなる近代兵器をも物ともせず、かの西郷隆盛に「清正公には勝てなかった」と言わせた城です。
もしここが落ちていたら、この戦争の勝者は薩軍になっていたかもしれませんね。
おまけ。
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人吉城跡の御下門階段。
熊本城(隈本城)が記録に初めて現れるのは、14世紀の南北朝期ごろ。
のちに色々な人物が入城しますが、現在の熊本城の姿になったのは1607年頃と言われています。
対して人吉城は、1200年前後にはすでに存在していました。 8:47
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戦国時代ばかりで、そろそろ味に飽きてきましたよね。
と言うわけで、今回は箸休めに戦国から離れて、近世人吉藩を取り上げてみます。
近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。
宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
…という数字は、幕府巡検使にお伝えする模範解答だったので、実際は腹黒い部分も多分にあったでしょう。
当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。
その公事の内容は以下のようでした。
<田畑部門>
胡麻 辛子 芋殻 荒糠 藁 大豆葉 など。
<山林原野部門>
柿 栗 山椒 実樫 猪肉 鹿肉 竹 松 枯草 など。
<加工品部門>
縄 藁筵(わらむしろ) 茶 渋 漆 など。
これらが公事の対象として現物や銀に換算して納められ、藩収入の基本になっていました。
寛永ごろは比較的裕福で、年収入貢米の1.3倍の蓄えがありました。
そのために「長崎買物」と言う商売にも手を出し、仕入れたものを京都で売りさばいて銭にしていたようです。
しかし、宝永元年(1704)頃から財政が傾き始めます。
幕府から命じられた利根川・荒川改修工事のために、京阪・江戸の商人から318貫を借金したのが発端でした。
その年の8月には、江戸藩邸修理費としてすでに大阪の商人から100貫ほど借りていたので、借金は合計約400貫にのぼりました。
1804年頃にはさらに悪化し、借金は710貫。
藩主一族の生活費を切り詰めるほどになりました。
そして翌年には1136貫突破。
1817年にはついに藩士は減知、百姓は上米、町人には上銀の命令が出されました。
殿様もお侍も百姓も、みんな揃って節約・切り詰め生活に耐えていました。
そこで回復すれば救われたのでしょうが、無情にも弘化(こうか)2年(1845)には4229貫にまで膨れ上がり、財政は火の車を通り越してすでに灰。
追い討ちをかけるは、文久2年(1862)の寅助火事。
城下町の大部分が焼け野原になった上に城の一部も焼失してしまい、大打撃と言うよりまさにトドメの一撃(^◇^);
もはや首が回らないにもほどがある状態になった相良家は、細川藩に金1万5000両の借金を頼み込みますが、あっさりお断りされてしまいます。
金銭関係にはクールな細川さん…。
しかし、大阪の近江屋と薩摩藩が助けてくれたので、這這の体で明治維新を迎えることができたのです。
どこの藩も財政は苦しかったと言いますけども。
肥後の山奥に、転落人生ならぬ転落藩政を見られましたね。 2:46
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と言うわけで、今回は箸休めに戦国から離れて、近世人吉藩を取り上げてみます。
近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。
宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
…という数字は、幕府巡検使にお伝えする模範解答だったので、実際は腹黒い部分も多分にあったでしょう。
当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。
その公事の内容は以下のようでした。
<田畑部門>
胡麻 辛子 芋殻 荒糠 藁 大豆葉 など。
<山林原野部門>
柿 栗 山椒 実樫 猪肉 鹿肉 竹 松 枯草 など。
<加工品部門>
縄 藁筵(わらむしろ) 茶 渋 漆 など。
これらが公事の対象として現物や銀に換算して納められ、藩収入の基本になっていました。
寛永ごろは比較的裕福で、年収入貢米の1.3倍の蓄えがありました。
そのために「長崎買物」と言う商売にも手を出し、仕入れたものを京都で売りさばいて銭にしていたようです。
しかし、宝永元年(1704)頃から財政が傾き始めます。
幕府から命じられた利根川・荒川改修工事のために、京阪・江戸の商人から318貫を借金したのが発端でした。
その年の8月には、江戸藩邸修理費としてすでに大阪の商人から100貫ほど借りていたので、借金は合計約400貫にのぼりました。
1804年頃にはさらに悪化し、借金は710貫。
藩主一族の生活費を切り詰めるほどになりました。
そして翌年には1136貫突破。
1817年にはついに藩士は減知、百姓は上米、町人には上銀の命令が出されました。
殿様もお侍も百姓も、みんな揃って節約・切り詰め生活に耐えていました。
そこで回復すれば救われたのでしょうが、無情にも弘化(こうか)2年(1845)には4229貫にまで膨れ上がり、財政は火の車を通り越してすでに灰。
追い討ちをかけるは、文久2年(1862)の寅助火事。
城下町の大部分が焼け野原になった上に城の一部も焼失してしまい、大打撃と言うよりまさにトドメの一撃(^◇^);
もはや首が回らないにもほどがある状態になった相良家は、細川藩に金1万5000両の借金を頼み込みますが、あっさりお断りされてしまいます。
金銭関係にはクールな細川さん…。
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管理人、今更ながら友人を頼ってmixiに招待していただきました。
喜々として相良氏関連のコミュニティを探す!
甘かった。
該当する結果はありません、て。
そんな殺生な。
試しに加藤清正や島津と入れて検索したら、結果が出てきたのに。
所詮相良氏なんて、そんなものなのかね…orz
mixiに慣れたら、相良な領土(コミュニティ)を開拓開墾してみようかな…。 0:17
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そんな殺生な。
試しに加藤清正や島津と入れて検索したら、結果が出てきたのに。
所詮相良氏なんて、そんなものなのかね…orz
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出世出世仕事仕事と励んでいた頼兄にも、当然お嫁さんはいました。
ひとり目は、椎葉山(しいばやま)の権力者、那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)ちゃんでした。
なかなかの美人だったそうで、その美貌を見込まれて犬童家の頼兄のもとに嫁したそうです。
…しかし。
のちに彼女は不義を働いたとの理由で実家の椎葉山に追い返され、そしてそれが「椎葉山事件」に繋がるのです。
椎葉山は肥後と日向の国境にある山で、「山岳重畳たる」そこには13の集落がありました。
それぞれの首長はみんな那須姓を名乗り、彼らは椎葉13人衆と呼ばれていました。
その中でも、特に才気にあふれていたのが那須弾正でした。
自然、弾正が椎葉山の総支配者のようになり、その他大勢・12人はそれを妬んでいました。
どうにか立場を覆せないものかと彼らがやきもきしていたところに、権力者の娘が離縁されて実家に帰ってきます。
「これは椎葉衆の不名誉だ」
12人衆は、好機到来とばかりに弾正の息子・久太郎(露袈裟ちゃんの兄貴)方に乱入、久太郎は肥後へ出、江戸まで逃げて幕府に訴えました。
幕府は久太郎と12人衆を対決させますが、なかなかすっきりとした結論が出ません。
そこで、幕府は延岡の城主・高橋元種に弾正・久太郎父子を保護するように命じ、これによってようやく久太郎は椎葉山に帰ることができました。
しかし、その後高橋家が改易になったので、好機再来の12人衆はついに弾正父子を討ち取ってしまいました。
徳川実紀によると、この椎葉山事件のとき相良長毎は兵を出すように命じられ、さらに用心をとって、延岡の有馬氏、佐土原の島津氏、熊本の加藤氏にも兵の準備をするよう指示があったそうです。
激しい椎葉山攻略戦の末、村民男女1000人が捕らえられ、首長ら140人が斬られ、女性の自殺が20人にも及びました。
このほかに、人吉や肥後国境の江代(えしろ)に出向いていた者も殺されているので、総勢200人近い人数が殺されたり自殺したりしたことになります。
大惨劇でした。
事件後、椎葉山は土豪支配領から天領となり、肥後の阿蘇神主家にその管理が命じられました。
しかし、阿蘇家が37年間に渡りその役を辞退し続けたので、結局、椎葉山は相良家支配所となって明治に至りました。
支配地が増えたといっても、欠落(かけおち)・逃散・訴訟など、椎葉山事件は長くずるずると問題を起こし続けたようで、相良家にとっては迷惑な存在だったそうです。
ふたり目のお嫁さんは、なんと他人から横取りしました。
彼女の名前は分かりませんが、旦那の名前は蓑田甚兵衛と言いました。
よほど頼兄の好みだったのでしょうか、頼兄は旦那を殺してまで彼女を自分の嫁にしました。
そんなふたり目のお嫁さんには、すでに息子がいました。
田代半兵衛頼昌と言い、母の再嫁後は犬童家の養子になりました。
父から母を奪った上、父も殺されたというのに、頼昌は養父・頼兄の権力に頼り、財力に甘えて羽振りのいい生活を楽しんだそうです。
ちなみに、この田代半兵衛は犬童半兵衛とも言い、御下の乱で藩の寄手と戦った人物です。
実際、頼兄は「椎葉山事件の詳細を聞きたい」という口実で江戸に呼ばれていたようで、2代藩主の頼寛に自分の専横を訴えられていることは知らなかったそうです。
対して相良藩江戸屋敷では、頼兄が幕府の召喚命令を拒否した場合に備えて、その対策を2人の使者に託し、帰国させていました。
頼兄と入れ違いに帰国した使者2名。
そのうち1名は頼昌に捕らえられ、江戸の様子を聞き取ろうとする彼に責め殺されてしまいます。
もう引き下がれなくなった犬童半兵衛は覚悟を決め、一族郎党と共に藩に立ち向かい、散りました。
ふたり目の嫁の手に入れ方を知ったとき、管理人は初めて頼兄の中に漢を見ました(笑)。 17:37
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ひとり目は、椎葉山(しいばやま)の権力者、那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)ちゃんでした。
なかなかの美人だったそうで、その美貌を見込まれて犬童家の頼兄のもとに嫁したそうです。
…しかし。
のちに彼女は不義を働いたとの理由で実家の椎葉山に追い返され、そしてそれが「椎葉山事件」に繋がるのです。
椎葉山は肥後と日向の国境にある山で、「山岳重畳たる」そこには13の集落がありました。
それぞれの首長はみんな那須姓を名乗り、彼らは椎葉13人衆と呼ばれていました。
その中でも、特に才気にあふれていたのが那須弾正でした。
自然、弾正が椎葉山の総支配者のようになり、その他大勢・12人はそれを妬んでいました。
どうにか立場を覆せないものかと彼らがやきもきしていたところに、権力者の娘が離縁されて実家に帰ってきます。
「これは椎葉衆の不名誉だ」
12人衆は、好機到来とばかりに弾正の息子・久太郎(露袈裟ちゃんの兄貴)方に乱入、久太郎は肥後へ出、江戸まで逃げて幕府に訴えました。
幕府は久太郎と12人衆を対決させますが、なかなかすっきりとした結論が出ません。
そこで、幕府は延岡の城主・高橋元種に弾正・久太郎父子を保護するように命じ、これによってようやく久太郎は椎葉山に帰ることができました。
しかし、その後高橋家が改易になったので、好機再来の12人衆はついに弾正父子を討ち取ってしまいました。
徳川実紀によると、この椎葉山事件のとき相良長毎は兵を出すように命じられ、さらに用心をとって、延岡の有馬氏、佐土原の島津氏、熊本の加藤氏にも兵の準備をするよう指示があったそうです。
激しい椎葉山攻略戦の末、村民男女1000人が捕らえられ、首長ら140人が斬られ、女性の自殺が20人にも及びました。
このほかに、人吉や肥後国境の江代(えしろ)に出向いていた者も殺されているので、総勢200人近い人数が殺されたり自殺したりしたことになります。
大惨劇でした。
事件後、椎葉山は土豪支配領から天領となり、肥後の阿蘇神主家にその管理が命じられました。
しかし、阿蘇家が37年間に渡りその役を辞退し続けたので、結局、椎葉山は相良家支配所となって明治に至りました。
支配地が増えたといっても、欠落(かけおち)・逃散・訴訟など、椎葉山事件は長くずるずると問題を起こし続けたようで、相良家にとっては迷惑な存在だったそうです。
ふたり目のお嫁さんは、なんと他人から横取りしました。
彼女の名前は分かりませんが、旦那の名前は蓑田甚兵衛と言いました。
よほど頼兄の好みだったのでしょうか、頼兄は旦那を殺してまで彼女を自分の嫁にしました。
そんなふたり目のお嫁さんには、すでに息子がいました。
田代半兵衛頼昌と言い、母の再嫁後は犬童家の養子になりました。
父から母を奪った上、父も殺されたというのに、頼昌は養父・頼兄の権力に頼り、財力に甘えて羽振りのいい生活を楽しんだそうです。
ちなみに、この田代半兵衛は犬童半兵衛とも言い、御下の乱で藩の寄手と戦った人物です。
実際、頼兄は「椎葉山事件の詳細を聞きたい」という口実で江戸に呼ばれていたようで、2代藩主の頼寛に自分の専横を訴えられていることは知らなかったそうです。
対して相良藩江戸屋敷では、頼兄が幕府の召喚命令を拒否した場合に備えて、その対策を2人の使者に託し、帰国させていました。
頼兄と入れ違いに帰国した使者2名。
そのうち1名は頼昌に捕らえられ、江戸の様子を聞き取ろうとする彼に責め殺されてしまいます。
もう引き下がれなくなった犬童半兵衛は覚悟を決め、一族郎党と共に藩に立ち向かい、散りました。
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
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「さがら検定」
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戦国時代を締め括る総決戦。
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職業:
藩校生
趣味:
九州
自己紹介:
身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
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