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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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遅すぎですが、明けましておめでとうございます(^◇^)。
2009年最初に買った小説が…

佐伯泰英(さえき・やすひで)氏の歴史小説「異風者(いひゅもん)」。

江戸時代・人吉藩の侍を主人公にした話。
第33代当主の相良頼之(よりゆき)が出てきます。
人吉のくに言葉のひとつ、「いひゅもん」を切り口に描かれている物語です。
相良氏が前面に出ている小説ではありませんが、人吉を扱った(きっと)数少ない小説なので、さがらマニアには嬉しい1冊ですよ。

佐伯泰英「異風者」ハルキ文庫(2000年第1刷発行) 0:07

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管理人の某日記からコピペ。
この話題は日記よりもむしろ当ぶろぐ向きです。

起請文や知行宛状など、大名をはじめとする武士が出した文書はいまも多く残っています。
そしてそれら文書は、ときどき取引の対象になるようです。
先生曰く「文書に値段をつけるのは不謹慎なことかもしれないのですが」、たとえば秀吉の文書は安くて1千万円、重要な内容を記したものならば数千万もの値がつけられることもあるそうです。
では四国の長曾我部家クラスの文書はいくらぐらいかと言うと、安くても100万~数百万単位。
やはり大名クラスにもなると、個人のガマ口財布から出せる額を軽く超えてしまうのですね。

ところが。

相良頼福(よりとみ)書状は65,000円也。

一般人でも、愛があれば容易に手が出せる額じゃないですか。
中身は「新年の挨拶に加え時候の様子」の書状だそうですが…。
たとえ「あけおめ ことよろ」(古い)の年賀状のような内容でも、諭吉さん6人半の値段、しかも古書販売サイトでお目に掛かるとはなんだか落胆でした orz

池田公一氏の「中世九州相良氏関係文書集」はじめ、氏の論文を全部読んでみたいです。 22:50

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天正15年(1587)5月上旬、秀吉の九州征伐に島津氏が降伏。
同時に相良家は島津幕下から解放。
豊臣大名として独立するための第一歩、球磨郡安堵を取りつけるために一役買ったのも、これまた深水長智でした。
彼の交渉能力は、響ヶ原後の相良家存続の際に十分証明されましたが、今回は和歌・連歌の素養を通しての交渉術が展開されます。

秀吉軍が薩摩に入り、川内川(せんだいがわ)を渡ったとき、秀吉が
「鎧の耳(鼻とも)にかかる波かな」
と連歌の発句を詠みました。
すると長智が、
「鞍間より流るる水は力水」
と返したそうです。
また、秀吉が川内泰平寺にいた頃、長智が連歌に長じていることが話題になり、秀吉軍に従軍していた連歌師・森由巴(里村紹巴とも)と秀吉、長智の3人で盛り上がったようです。

秀吉は、このように文化的な素養に溢れた長智を大そう気に入りました。
実際のところ、秀吉は薩摩の掃討戦を考えていましたが、長智が「思い止まって欲しい」と島津氏の安堵を懇願したため、秀吉も「じゃあやめるか」と考えを改めたそうです。
どんだけ(笑)
さらに、肥後の新国主・佐々成政と島津氏の牽制のために、長毎とは別に知行宛行の朱印状を発給し、軍事拠点として八代と並んで重要な水俣城を長智に任せました。
どーんだけ(笑)
その上、秀吉は長智を自分の側近にしようとします。
長毎に対して忠の厚い長智は、さすがにこれは固辞しました。
これには、ただ気に入ったからではなく、きちんと背景もありまして。
戦国期の大名家には、それぞれに知恵袋となるおばあちゃん一族、重臣がおり、殿様方は彼らの力を借りて勢力を維持・発展させていました。
秀吉は、彼ら知恵袋を新規の大名に取り立てたり代官に立てたりなどして、各大名家の権力の抑制を図っていたのです。
例えば、片倉景綱(伊達氏)、直江兼続(上杉氏)、寺西宗則(前田氏)、東義久(佐竹氏)、安国寺恵慧(毛利氏)、伊集院忠棟(島津氏)などが知られています。
深水長智もそのひとりで、秀吉の「おめがね」にかなった人でした。
だからどんだけ(笑)

時の権力者に気に入られた、相良家老臣深水宗方長智。
彼は九州征伐から3年後の1590年、その生涯を終えました。 2:13

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度重なる『戦国魂』氏からの記事コピー…。

【相良義陽討死】天正九年(1581)12月02日
肥後響野原の合戦で相良義陽が甲斐宗運に敗れ討死する。
享年38歳。

肥後相良氏は人吉城(熊本県人吉市)を本拠とする名族で、戦国期には八代古麓城(同八代市)の名和顕忠を下して勢力を広め、肥後南部の雄として存在していました。
十八代当主となった相良義陽(よしひ)は天文十八年(1544)二月、晴広の子として木枝上田館(同錦町)で生まれました。
初め頼房と名乗り、同七年に従四位下修理大夫に叙任、将軍足利義輝の偏諱を受け義陽と改名しています。

天正六年(1578)十一月の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、北上を企図する島津氏は次なる矛先を相良氏に向けてきました。
その頃肥前の龍造寺氏も隈府城(熊本市)制圧を策して相良氏に援軍要請を求めますが、義陽はこれを断っています。

この年の八月、島津氏は肥薩国境に近い水俣城(同水俣市)へ攻め寄せました。
守将の犬童頼安の奮戦も及ばず、結局降伏と同じ和議を結ばされる結果となり、やがて八代も島津氏の支配下となります。
そして島津義久は義陽に対し、御船城(同御船町)の甲斐宗運討伐を命じました。
義陽は同八年十一月以来、阿蘇氏の筆頭家老・甲斐宗運とは親交を結んでいました。
義久の命を拒めば滅亡は明らかで、宗運を討てば日頃の信義に背くことになります。
義陽は迷い悩み抜いた末に遂に決断を下し、宗運討伐への出陣を承諾しました。

義陽は戦死を決意していました。
彼は家臣の反対を押し切って響野原(同宇城市)に陣を敷きますが、これは正に「背水の陣」で、友人であり義陽をよく知る宗運は初めはこれを信じませんでした。
物見の報告によって事実と知った宗運は、「さては相良の命運も尽きたか、自ら死地を選んだとか思えない」とまで述べています。
宗運には彼の心中がよくわかっていたのでしょう。
決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かなかったと伝えられます。そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫りました。
義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。
太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます(別の士が首を取って宗運に献じています)。
宗運は変わり果てた義陽の姿に涙を流して合掌し、深く同情して義陽の死を悼みました。
義陽は歌道にも秀でた文人でもあり、家中からの信頼も厚く、また慕われていたようです。
後に生き残った犬童頼安は密かに戦場を訪れ、義陽の墓前に一首を献じました。

思いきやともに消ゆべき露の身の 世にあり顔に見えむものとは

頼安の亡君に対する思いがひしひしと伝わってきます。
義陽享年三十八。
島津氏でもさすがに気の毒と思ったか、子の忠房に家督を認めて人吉城を返しています。 by Masa
(引用終了)

森田誠一氏曰く、義陽の戦死は相良家の歴史上でも「ドラマティック」。
確かにドラマティックですが、お家のためと言えど、まだ10歳の長男をはじめとする幼い子供達と奥さんを残して死ぬのは、まだ38歳の若武者としては辛すぎる選択に違いなかったでしょう。
歴史を見ていると、「格好いい」や「潔い」などと単純に感動してしまいがちですが、ひっくり返してみると、そこには人間の生々しい部分が晒されていたりしますよね。
それを思うと、なんだかむなしくなる…のは考えすぎ(^◇^);?

以下は相良義陽関連リンク集です。
すべて別窓が開きます。
相良義陽の墓(熊本県八代市HP)
「戦国島津伝 第46章 決意」(狗小屋)
1年目7月25日(犬童頼兄日記)
第18代当主 相良義陽(SAGARA BLOG) 0:58

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本日は2008年11月29日。
「いい肉つくろう鎌倉牧場」の日です。
くだらない?
いや、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、肥後相良氏のご先祖である遠江相良氏は相良庄で牧場主をしていた訳ですから、あながち間違いではないと思うのですが…つまらないですね(^◇^);<納得

去年の11月29日、「きっと相良氏にもドラマがあるはず」と信じて当SAGARA BLOGを設置いたしました。
いま、思うのは。

当たっていたな

ということです。

一.本家乗っ取りなのか、本家擁護なのか、永留長続。
一.お家のためには自らの戦死を、相良義陽(THE ぐらんぷり of ドラマ)。
一.「殿様の御ために」は己の欲望の土台だったか、犬童頼兄。

たとえ天下統一には縁遠かろうと、たとえ九州の覇権争いの一端にしかなり得なくとも、自分の尊厳だけは汚させなかった。
大友氏に降り、島津氏に降り、そして豊臣氏、徳川氏に従おうとも、その心は時代の主君よりも相良の先祖にあったのではないか。
この1年の間に、そんなお家の有り様こそが、様々な歴史上の出来事よりもドラマらしいと思うようになりました。

さて。
そんなことを言う暇があるなら、さっさと深水長智の続きを書けと。
御尤もです<(_ _)>
頻繁に当ぶろぐにご来訪いただいている方々、満足していただける頁作成を目指しますので、これからもどうぞよろしくお願い致します。
初来訪の方々、ぱっと見ても「相良氏って面白いんだな」と思っていただける頁作成を目指しますので、どうぞよろしくお願い致します。

Thank you for your visiting.
2008.11.29.Saturday. SAGARA BLOG Writer. 某N Total Visitor is 995. 21:45

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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました


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「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています


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「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作


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なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
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