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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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ここでは犬童頼兄について書きます。
関ヶ原合戦時の相良氏については、肥後相良氏カテゴリーの「相良左兵衛佐の手の者、一番乗り」(別窓)をご覧ください。

1600年9月15日の決戦、天下分け目の関ヶ原。
合戦に参加して勝利を収めた者、敗走した者、散った者、敵中突破を為した者。
諸将様々な動きを見せた、この合戦、その日。
相良勢は、水面下で独特な動きを展開していました。

それは西軍から東軍への寝返り。
東軍の勝利が確定すると見るや、犬童頼兄が主君に提案したそうです。
長毎はその案に賛成し、寝返り実行を決意します。

9月17日、長毎から命を受けた犬童頼兄(このときには相良頼兄)は、同じ大垣城で二の丸を守備していた熊谷直盛、垣見一直、木村勝正らの三将殺害のため、兵を10人選んで合言葉などの手はずを決めました。
そして翌18日。
頼兄は、軍議をするからと嘘を言って3人を呼び、城外で垣見・熊谷父子を殺害、首を挙げました。
その首は、長毎から包囲軍の水野勝成を通して井伊直政に送られ、寝返りが成立しました。

関ヶ原後、相良家は本領を安堵され、なんとかお家存続を果たします。
これも頼兄のおかげ。
そう思った長毎は、功臣・頼兄に500石を加増しました。
この頃から、頼兄は『清兵衛』と名乗り始めます。
それまでは『兵部』だったのですが、井伊直政の官途が『兵部少輔』であったため、清兵衛に変更したそうです。

ところで。
『天下分け目の大合戦』と言えるのは、この戦の主役、徳川家康と石田三成…おまけに黒田官兵衛(笑)くらいではないでしょうか。
他の大名にとっては、天下分け目ではなく『お家分け目』が精々かと思われるのです。
どさくさに紛れて、というノリで天下を取れるような大大名ならともかく、相良氏のような小大名は特にそうでしょう。
そんな『お家分け目』の関ヶ原で、見事功を挙げた相良清兵衛頼兄。
小大名にとっては最高の戦功に違いありません。
それを成し遂げた彼の出世は、まだまだ止まるところを知りません。
次回、「犬童清兵衛頼兄 伍」では、ついに専横に走り、藩を私する行動を始める頼兄について書いていきます。
クライマックスが近づいてきました。 2:22

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深水父子 出奔。

犬童頼兄の勢力の増大に抵抗できなかった深水頼蔵は、ついに人吉の地を去ります。
長毎とともに伏見から帰るとき、彼は球磨には戻らず、(頼蔵のお祖父さんである)宗方以来なじみの深い佐敷(さじき)に行き、出奔して肥後の加藤清正を頼りました。
これを機に、父の織部(おりべ)も出奔。
彼らが逃げ出したのを見た頼兄は、2人の妻子を捕らえ、人吉城中などに監禁します。
湯前に居た竹下氏(以前、犬童氏討伐を企んだ人たち)が妻子の奪還を目論みますが、むなしくも失敗に終わりました。
犬童氏にスキ無し(笑)。
そして結局、頼兄の命令を受けた犬童久右衛門によって、深水氏一党73人は殺害されました。

その仕打ちを「頼兄の横暴」とした深水頼蔵は、「私怨」として伏見に訴え出ました。
石田三成は頼兄を召喚し(召喚魔法か←笑)、頼蔵と一緒にその行為…一党殺害について詰問しました。
犬童頼兄は、
「一党の処断は、自分が勝手に判断して行ったものではありません。主君長毎の命によって為したのです」
と答えます。
現に、長毎は頼兄に深水氏討伐の命令を書いた文書を渡していましたし、頼兄はそれを三成に提出しました。

これ以上どうしようもないほどの証拠を出されてしまった深水頼蔵。
不利は不利だけれど、不利どころじゃない不利っぷりですよ。
もはや勝ち目なし、と悟った頼蔵は、法廷から逃走するほどだったそうです。

それから改めて、三成から頼兄に頼蔵追捕の許可状が与えられました。
これで、より堂々と頼蔵を攻められるようになった頼兄。
しかし頼蔵は頼兄の追捕を逃れ、朝鮮に行く清正軍に従って、蔚山(ウルサン)城の攻防戦で戦死しました。

犬童・深水両一族の対立は、一方の死亡という結末で終わりました。

こうして、長毎政権下の犬童・深水の「両輪」補佐体制は崩れ去り、砂礫となり、犬童休矣・頼兄父子の独占体制がはじまります。
加藤清正と石田三成の仲が悪かったことは有名ですが、清正を頼った頼蔵と、三成を頼った頼兄の対立構図は、彼らトップクラス武将の抗争の一端にも持ち込まれた、とも言えるそうです。
地方の小大名の家臣ごときが、おっそろしいものに影響を与えたのですねー(笑)。

「諸人が憎しみを持っても、顧みないほどの御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者なのだ」

深水一族との対立に勝利した頼兄の言葉です。
自信に満ちている様子がうかがえます。
「殿様の御ため」を合言葉に働き、その結果、ついに自分が権力の中枢に達した。
そんな達成感を秘めているようにも思えます。
しかし。
それと同時に、彼はこのような言葉も残しているのです。

「自分には御家中では気心の知れた人は一人もいない」

きっと頼兄は、家中から冷ややかな目で見られていたのでしょう。
管理人から見ても、頼兄は少々強引で強欲な人に思えます(それゆえに好きですけど)。

孤独な権力者 犬童頼兄。
彼は家中の視線にもめげず、これからも彼らしい舞台を披露してくれます。
次回、「犬童清兵衛頼兄 肆」では、関ヶ原の合戦時の頼兄について書いていきます。 4:08

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前回、相良長毎の老臣である犬童休矣・頼兄父子と深水頼蔵は仲が悪いことを書きました。
その対立は、頼蔵の祖父・宗方(長智)の死後、より深まっていきます。

両氏の仲の悪さは、朝鮮派兵の際にも問題を引き起こしました。

長毎
が渡海するとき、なんと頼蔵は一旦帰国してしまったのです。
深水一族と姻戚関係にあった竹下監物(たけした・けんもつ)がなだめて、なんとか相良軍に復帰させるほどでした。
すでに書きました通り、頼蔵は長毎の軍師です。
いくら仲が悪いからと言って、拗ねてもらっては困りますよ(苦笑)。

そんな中。
主君である長毎は、深水一族の増長に対する田地の没収や、朝鮮従軍の拒否に対する処罰に苦労します。

しかし、そこで事件が起こりました。
竹下監物が、
「これは、頼兄が深水一族を陥れ、その勢いを削ごうとしているに違いない」
と怒りを爆発させ、湯前城に拠って犬童氏の討伐計画を企てました。
同じく犬童一族に不満を持つ者は多く、600名もがこの計画に賛同します。

結局、この企ては露見し、監物は長毎に自害を命じられました。

なお、長毎はこの不穏な動きを以前から察知しており、青井阿蘇神社などに「怨敵退治」  「求麻郡内安全」を記念する願文を書いています(肥後相良氏カテゴリー『青井阿蘇神社と相良と鶏』)。

豊臣政権による検地の際にも、両氏の確執が周囲を巻き込みました。
長毎が朝鮮在陣中で領国を留守にしている間に、黒川右近が検地のために球磨に下向しますが、深水一族は検地に反対しました。
政権の命令に反対するなど、お家存続の是非に関わる問題です。
深水一族を警戒する長毎は、領内の安定を図るため、頼兄を帰国させました。
対立勢力を投入することで、深水一族の暴走を抑え、中和させようとしたのでしょう。

翌月。
長毎は、五奉行のひとり・石田三成から、領内政治に関して忠告を受けました。
もはや、相良家老臣の犬童・深水両一族の確執は、家中のみの問題ではなく、中央の政治家をも動かす事態になっていました。

次回、「犬童清兵衛頼兄 参」では、犬童・深水の対立の結末をお伝えいたします。 0:48 
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3月の下旬に「次回から犬童清兵衛くんについて書きますよ」とか言っておいて、今頃第1弾ですか。
遅すぎるにも程がありますよね…orz
そんなこんなで、意地と武士魂で始まった頼兄くんシリーズ。
読んでくださったら幸いです。
ありがたいです。
↓↓↓
18代相良義陽の戦死後、お家の存続すら危うくなった相良家。
そんな相良家のために奮闘したのは、犬童清兵衛頼兄のパパ・犬童休矣(頼安:きゅうい,よりやす)と、深水宗方(長智:そうほう,ながとも)でした。
ふたりは相良家の重臣です。
彼らは義陽の嫡男・亀千代(このとき10歳)を元服させて四郎太郎忠房(ただふさ)と名乗らせ、相良の家督を継がせました。
さらに、島津氏の要求に応え、忠房の弟である長寿丸(8歳)と藤千代(4歳)のうち、くじを引いて「吉」が出た長寿丸を薩摩に人質として送り出しました。
ちなみに、くじはきちんと神社で引きました。
あみだくじではありません(笑)。

しかしその4年後、忠房は疱瘡のために14歳で亡くなります。
ふたりは島津氏の許可を得て、人質として送り出していた長寿丸を呼び戻し、元服させて四郎次郎頼房(よりふさ・のちの長毎ながつね)と名乗らせ、兄の跡を継がせました。
その代わりとして、藤千代…のちの長誠(ながとも)が薩摩に出掛けました。
その後、休矣・宗方は、若さゆえか的の外れた行動をする長毎をうまく補佐していきます。

そして、時は移ろい、1592年正月。
秀吉の朝鮮出兵が始まり、諸大名に出陣が命じられました。
相良組は同年3月、日向飫肥(おび)の伊東祐兵(いとう・すけたけ)、薩摩の島津義弘・久保(ひさやす)親子らと共に肥前名護屋に向かいました。
ここでようやく頼兄の登場です。
そのとき、長毎は深水宗方の孫・頼蔵(よりくら)を軍師(or 参謀)に、犬童休矣の息子・頼兄を補佐役に命じ、ふたりに相良姓を与えたそうです。
加藤清正に属し、いざ朝鮮へ向かった相良ご一行。
…しかし。
長毎の右腕×2、といった存在だった頼蔵・頼兄は、きっわめて仲が悪かったのです。
もともと深水一族と犬童一族は確執があったそうですが、とりわけそのふたりはお互いが大嫌いだったとか。
次回、「犬童清兵衛頼兄 弐」では、その両氏の確執について書いていきます。

・・・略して、その名も『犬童清兵衛頼兄(いんどうorいぬどう・せいべえ・よりえ)』。
戦国末期、関が原の頃に活躍し、相良家を近世大名に押し上げた名臣。
のちに、当時の相良家当主・第20代長毎(ながつね)から、主君と同じ相良姓を賜った信頼厚い家臣。
しかし、時代の流れに巧みに乗り、乱世を押し切った彼の最期は、肥後は人吉から遙か彼方、一面雪景色の津軽のくにで迎えられました。
領内で次第にふくらんだ彼の権力は、彼を専横に走らせ、そして自らの主君により江戸幕府に訴えられたのち、津軽藩お預けという厳しい処分を受けることになります。
清兵衛の転落人生は、彼の一族にも悲劇をもたらしました。
主君の仕打ちに対して不満を持った清兵衛の一族が反乱を起こし、一族121人全員が死亡。
屋敷も焼打ちにされました。
そんな屋敷跡から見つかった、清兵衛親子の不思議…。
次回より、数回に渡って犬童清兵衛頼兄についてお送りします。

予告で終わりってどうよ(・_・;)。
…いや、それと言うのも。
現在、逃亡紀行で撮った写真群の整理中なのです。
凝り性なのか、単なる相良氏マニアなのか知りませんが、自分で勝手に作業を細かくして、それに翻弄されている状態です。
笑って(笑)。
まぁこれも言い訳に過ぎないわけですから、ブログのほうも頑張ります。
それでは、次回から頼兄くんシリーズを展開します。
乞うご期ta…いや、いつも通りの目で見てやって下さい(苦笑)。

こよみ
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