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マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
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余命有限五更雲八十八年風前燈
終ニハト思フ心ノスヘトケテ月ノ都ニ
今立帰月トトモニ影クラカラヌ山路カナ

2月28日に、人吉市にある人吉城歴史館に行ってまいりました。
ちょうど「相良氏入国八一〇年展」が開催中でした。
下の写真に使われている肖像画は18代義陽公ですが、彼が採用されたのはやはり男前だからですか(笑)?

イケメン当主(笑)
(画像クリックで拡大)

人吉城歴史館【相良清兵衛屋敷】ってどうよ。
さすが清兵衛殿、特別展の第2期を自分主役にしてみせ、現代でも主家をないがしろにしていらっさります(^◇^)!

こちらは清兵衛の息子、内蔵助の地下井戸遺構。
                        

内蔵助頼安と申します
(画像クリックで拡大)

ガラス張りなので反射が凄まじく、甚だ見づらい1品となりました。

            解説井戸
(画像クリックで拡大)

左の写真を拡大すると、右の井戸の説明が出てきます。

相良のぼり
(画像クリックで拡大)

熊本市は晴れだったのに人吉市は曇り空でした。
右下の三角屋根の建物は内蔵助井戸遺構です。

学芸員さんに相良清兵衛頼兄についてお話をうかがったところ、津軽配流後の頼兄に関する史料は残っていないそうです。
とは言っても実際は残っているのかもしれないのですけれど、弘前市があまり探そうとしないとかなんとか。

椎葉山騒動の事実を教えるようにと幕府に召喚された頼兄は、箱根の関所を越えた途端に罪人扱いになり、瀬戸内海を東に進んでいるころ、御下の乱が起きました。
津軽での清兵衛は、屋敷に門番が付き監視される軟禁状態にあったようです。
ただ、米の売買や薬に関する知識を買われ、津軽の殿様に貢献した部分もありました。
屋敷の庭には、清兵衛が津軽の殿様からもらった鉢植え(?)の梅を植えなおしたものが今も花を咲かせているようです。
その梅を眺め、彼はかつての主家、長剣梅鉢相良氏を思い出したのでしょうか。

武・者・が・え・し!
(画像クリックで拡大)

人吉城名物撥ね出し工法・武者返しです。
これくらいなら返されないように思いますが、ほんとうに登れないそうですよ。

長剣梅鉢は親切です
(画像クリックで拡大)

相良家家紋つき方向案内図。
地面にあるので、うっかり踏みつけることのなきよう(笑)。

相良氏よりキジ馬のほうが先輩か?
(画像クリックで拡大)

人吉駅にあった、貸し出し自由の傘が入っている傘立てです。
キジ馬……相良氏と同じくらい好きです。

とまぁ、人吉訪問はこんな感じでした。
都合で1時間ほどしか滞在できなかったのが残念です。

ちょっと待て。

冒頭の訳のわからない文章はなんだと。
月ノ都?かぐや姫?

冒頭の文章は相良清兵衛頼兄の自省(彼が反省するわけがない)辞世の句です。
当時としては長い88年の生涯でしたが、たった88年で、こんなに魅力ある人生を築けた清兵衛殿はやはり人吉の偉人でしょう。2:42
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出世出世仕事仕事と励んでいた頼兄にも、当然お嫁さんはいました。

ひとり目は、椎葉山(しいばやま)の権力者、那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)ちゃんでした。
なかなかの美人だったそうで、その美貌を見込まれて犬童家の頼兄のもとに嫁したそうです。
…しかし。
のちに彼女は不義を働いたとの理由で実家の椎葉山に追い返され、そしてそれが「椎葉山事件」に繋がるのです。

椎葉山は肥後と日向の国境にある山で、「山岳重畳たる」そこには13の集落がありました。
それぞれの首長はみんな那須姓を名乗り、彼らは椎葉13人衆と呼ばれていました。
その中でも、特に才気にあふれていたのが那須弾正でした。
自然、弾正が椎葉山の総支配者のようになり、その他大勢・12人はそれを妬んでいました。
どうにか立場を覆せないものかと彼らがやきもきしていたところに、権力者の娘が離縁されて実家に帰ってきます。
「これは椎葉衆の不名誉だ」
12人衆は、好機到来とばかりに弾正の息子・久太郎(露袈裟ちゃんの兄貴)方に乱入、久太郎は肥後へ出、江戸まで逃げて幕府に訴えました。
幕府は久太郎と12人衆を対決させますが、なかなかすっきりとした結論が出ません。
そこで、幕府は延岡の城主・高橋元種に弾正・久太郎父子を保護するように命じ、これによってようやく久太郎は椎葉山に帰ることができました。
しかし、その後高橋家が改易になったので、好機再来の12人衆はついに弾正父子を討ち取ってしまいました。

徳川実紀によると、この椎葉山事件のとき相良長毎は兵を出すように命じられ、さらに用心をとって、延岡の有馬氏、佐土原の島津氏、熊本の加藤氏にも兵の準備をするよう指示があったそうです。
激しい椎葉山攻略戦の末、村民男女1000人が捕らえられ、首長ら140人が斬られ、女性の自殺が20人にも及びました。
このほかに、人吉や肥後国境の江代(えしろ)に出向いていた者も殺されているので、総勢200人近い人数が殺されたり自殺したりしたことになります。
大惨劇でした。

事件後、椎葉山は土豪支配領から天領となり、肥後の阿蘇神主家にその管理が命じられました。
しかし、阿蘇家が37年間に渡りその役を辞退し続けたので、結局、椎葉山は相良家支配所となって明治に至りました。
支配地が増えたといっても、欠落(かけおち)・逃散・訴訟など、椎葉山事件は長くずるずると問題を起こし続けたようで、相良家にとっては迷惑な存在だったそうです。

ふたり目のお嫁さんは、なんと他人から横取りしました。
彼女の名前は分かりませんが、旦那の名前は蓑田甚兵衛と言いました。
よほど頼兄の好みだったのでしょうか、頼兄は旦那を殺してまで彼女を自分の嫁にしました。
そんなふたり目のお嫁さんには、すでに息子がいました。
田代半兵衛頼昌と言い、母の再嫁後は犬童家の養子になりました。
父から母を奪った上、父も殺されたというのに、頼昌は養父・頼兄の権力に頼り、財力に甘えて羽振りのいい生活を楽しんだそうです。

ちなみに、この田代半兵衛は犬童半兵衛とも言い、御下の乱で藩の寄手と戦った人物です。
実際、頼兄は「椎葉山事件の詳細を聞きたい」という口実で江戸に呼ばれていたようで、2代藩主の頼寛に自分の専横を訴えられていることは知らなかったそうです。
対して相良藩江戸屋敷では、頼兄が幕府の召喚命令を拒否した場合に備えて、その対策を2人の使者に託し、帰国させていました。
頼兄と入れ違いに帰国した使者2名。
そのうち1名は頼昌に捕らえられ、江戸の様子を聞き取ろうとする彼に責め殺されてしまいます。
もう引き下がれなくなった犬童半兵衛は覚悟を決め、一族郎党と共に藩に立ち向かい、散りました。

ふたり目の嫁の手に入れ方を知ったとき、管理人は初めて頼兄の中に漢を見ました(笑)。 17:37

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御下の乱によって、頼兄の屋敷はゴミ山同然になりました。
長くただのゴミ山として放置されていましたが、近年、そのゴミ山を掘り返したところ、地下井戸が見つかったそうです。
わざわざ地下室に井戸を造るのは異例のことで、このような遺構が発見されたのも全国的にかなり珍しい例とされています。
その場所には、現在、人吉城歴史館が建っています。
井戸は見学可能です。
その前に、歴史館に入ったときに、展示物を見学し終わったら、是非あちらをご覧くださいと言われます(笑)。
見せ所なのでしょうね\(^o^)/
管理人は声を掛けられましたが、声を掛ければ、詳しく解説してくれる方がおられます。
その方の話によると、現在でも水は湧いており、2、3日に1度は水を汲み出さなければ溢れるそうです。
地下室自体も緻密な造りでしたが、井戸(と言っても、割と浅い)には数段階段が付いており、下までおりられるような丁寧な造りでした。

…さて。
気になるのが、井戸の使い方です。
ただ生活用水を得るために井戸を造るなら、地上に造るのが普通です。
ですが、頼兄屋敷跡の井戸はひっそりと隠れるように地下室に造られていました。
井戸の傍には階段があり、上の階に繋がっています。
その上意味深なことに、遺構発見時、井戸の底には鞘に入った刀ひとふりが沈められていたそうです。
ただ「落ちちゃった!」という訳ではないでしょう(笑)。

これらのことを総括して考えられた結果、頼兄はキリシタンであったのではないか、という仮説が生じました。
井戸を造ったのは沐浴して体を清めるため、あえて地下に造ったのはキリシタンであることを見破られないようにするため。
刀を沈めておいたのは、お祓いの意味を込めて。
あくまでも仮説だそうですが、もし、頼兄がキリシタンだったことが事実であったら、彼の人生に余計ドラマを感じてしまいます。

この記事に関する内容をきれいにまとめてくれているのが、こちらのサイト氏です。
色々な写真付きです。
江戸文化in熊本

人吉市を訪れ、この遺構を見るまで、犬童頼兄という人物についてはなにも知りませんでした。
しかし、歴史館や慰霊碑などを回っていると、相良家のために尽くして最高の出世を遂げながらも、最後は自身の追放と一族の滅亡という悲劇で人吉の歴史から去った彼には、ともすると相良氏に対する以上の興味を引き立てられました。
それに加えて、キリシタン疑惑までもが浮上すると想像(妄想とも言う)が膨らんでしまいます。
このために、犬童清兵衛頼兄カテゴリーを立ち上げようと思い立ちました。
全6回の記事に半年も掛かってしまいましたが、最後までご覧になっていただきありがとうございました。
また犬童頼兄について興味深い話を耳にしたら、当カテゴリーに追記したいと思います。
最後に、魅力的な人生を見せてくれてありがとう、犬童頼兄! 20:30

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1606年11月、犬童頼兄(この頃は相良清兵衛)の父、犬童休矣(きゅうい。頼安・美作入道みまさかにゅうどう)が85歳で亡くなりました。
深水宗方長智とともに、相良義陽・忠房・長毎の3代に仕え、相良家存続に尽力した人でした。
外交だけでなく、水俣城攻略戦など大小19の合戦に出陣し、その体には31ヶ所の傷をもつ勇士でもありました。
その死に際して、数名が殉死したそうです。

父親の死。
これは、犬童頼兄にとって好機の到来だったと言えるかもしれません。
「殿様の御ため」と奉公に励んできた頼兄ですが、次第に専横に走り始めました。
これまでは父親が彼を諫言したのですが、父親の死後、だれも止めることができなくなったのです。
まず、頼兄は日向島津氏との結び付きを固くします。
翌々年7月には、頼兄の息子・内蔵助(くらのすけ。頼安)のもとに島津以久(もちひさ)の娘が輿入れしました。
これで、犬童家と日向佐土原藩主の島津家は姻戚関係になりました。
さらに1612年には、島津家久(いえひさ・初代薩摩藩主)が人吉城にやって来て長毎のもてなしを受けます。
しかし、もてなしは長毎から受けたものの、家久が泊まったのは頼兄の屋敷でした。
長毎にとっては面白くありません。
その上、1628年10月には、長毎の次女阿万(おまん)が、頼兄の孫である喜平次(きへいじ・頼章)のもとに嫁ぎます。
すでに頼兄の娘が長毎の嫡男・人吉藩2代藩主の頼寛(よりひろ)の元に嫁いでいたので、頼兄は頼寛の舅となっていました。
それによって、藩における頼兄の政治力は不動のものになっていたのです。
ともすれば、犬童家が相良家に取って代わりそうな勢いだったのかもしれませんね。

しかし、頼兄はそんな大それたことはせず、1636年の春に隠居したいと申し出ます。
(この年、長毎は江戸で亡くなりました。)
隠居願いは受け入れられ、頼兄は隠居所として岡本古城を修築し始めました。
それまではまぁ良かったのですが。
城下には市も開かれ、領民が集まってなかなか賑わったそうです。
頼寛は、「もう自分の権威など微塵も無い。我慢ならない」と思ったのでしょう。
4年後、5月と8月の2度に渡って、頼寛は頼兄の悪行をそれぞれ9ヵ条,13ヵ条からなる目安状にまとめて幕府に提出しました。
その内容は、
一.隠居所に町家を建てたこと。
一.家中の知行を勝手に取り上げて横領したこと。
一.長毎・頼寛から忠実な家臣を遠ざけたこと。
一.百姓に難題を吹っ掛けて他領に追いやった上、他領から不審な人間を入れて扶持したこと。
一.島原の乱のとき、不埒な行為をしたこと(これについては詳細がありませんでした。気になりますが…)。
一.年貢の収支決算に関すること。
一.頼兄・頼安(息子のほう)の知行方を主君へ報告しなかったこと。
というものだったようです。
具体例を挙げられると、ほんとうに頼兄たちは好き勝手していたことがわかりますね(^◇^);

頼寛の訴え(もはや涙の叫び?)を受理した幕府は、頼兄を江戸に呼び出しました。
幕府は、頼兄本人の話と頼寛の目安状を比較・吟味し、頼兄に次のような裁定をくだします。

陸奥弘前の津軽家へのお預け。

これは厳しい部類の処分に入るそうです。

その頃、くにでは大乱が起きていました。
頼兄が頼寛に訴えられて江戸に行った、と知った頼兄の一族が、主家相良家に対して反乱を起こしたのです。
のちに「御下の乱」と呼ばれる乱でした。
犬童側は屋敷に立て篭もり、相良側の兵に徹底抗戦します。
屋敷は燃え上がり、討死する者や自害して果てる者が続出します。
下の写真の右上のほうに、朱色で点々と塗られている建物があるのを確認いただけるでしょうか。
これは燃え上がる頼兄の屋敷だそうです。
yashiki-chikaidoato.jpg
(画像クリックで拡大)
男連中は討死や自害で死に、女子供は立て篭もる男連中によって殺されました。
この乱によって、犬童一族121人が亡くなりました。
ireihi.jpg
(画像クリックで拡大)
御下の乱の慰霊碑です。
犬童一族全員が亡くなったとされていますが、実はただ1人頼兄の娘が生き残ったそうです。
その人が頼寛夫人であるかどうかは分かりませんが、頼兄の娘が建てたと言う頼兄の慰霊碑があるそうです。

さらに、この乱のときに忠を飾った人物を言い伝える品が相良神社に残っていました。
chikaraishi.jpgchikaraishi-enkei.jpg
(画像クリックで拡大)
「力石」と呼ばれる石だそうです。

相良家のお家存続を成功させ、功臣として名を高めた犬童頼兄。
その彼に待っていたのは、東北への追放と一族の粛清でした。

次回、「犬童清兵衛頼兄 最終回」では、近年発見された頼兄のナゾについて書きたいと思います。
こんなに長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。 2:58

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『相良清兵衛 伍』に続く前に、ちょっとここで楽しいお知らせ。
今月14日の日曜日、九州大学箱崎キャンパスにて、犬童頼兄が主人公の劇が公開されるそうです
そのタイトルも『広目天の眼 不知火の海』。
島津氏vs龍造寺氏の沖田畷の戦いが舞台だそうですが、その戦いを肥後の犬童頼兄を中心に見ていく展開が面白いです。
公演特設サイトをリンクに貼りましたので(相互リンク)、ぜひご覧ください。

下は、よりあにくんが劇に出るのが嬉しくて描いた1枚です。
今日中に仕上げようとしたのですが、パソコンとの数々の戦いに打ち破れ、途中のままのアップになってしまいました。
祝賀よりあに
(画像クリックで拡大)
妙に上が空いているのは、なにか文字を入れようかと企んでいるが故です。
持っている旗印には、相良の家紋・長剣梅鉢を押し込む予定。
のちほどきちんと色塗りが終わったら、差し替えておきます\(゜ロ\) 23:08
→差し替えておきました。
  空白に文字を入れてみたのですが、なかなかorzな出来なので、下の「よりあにーズ」に隠しました。

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こよみ
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(劇)池田商会制作様

「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました


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「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています


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「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作


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身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
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