マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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1606年11月、犬童頼兄(この頃は相良清兵衛)の父、犬童休矣(きゅうい。頼安・美作入道みまさかにゅうどう)が85歳で亡くなりました。
深水宗方長智とともに、相良義陽・忠房・長毎の3代に仕え、相良家存続に尽力した人でした。
外交だけでなく、水俣城攻略戦など大小19の合戦に出陣し、その体には31ヶ所の傷をもつ勇士でもありました。
その死に際して、数名が殉死したそうです。
父親の死。
これは、犬童頼兄にとって好機の到来だったと言えるかもしれません。
「殿様の御ため」と奉公に励んできた頼兄ですが、次第に専横に走り始めました。
これまでは父親が彼を諫言したのですが、父親の死後、だれも止めることができなくなったのです。
まず、頼兄は日向島津氏との結び付きを固くします。
翌々年7月には、頼兄の息子・内蔵助(くらのすけ。頼安)のもとに島津以久(もちひさ)の娘が輿入れしました。
これで、犬童家と日向佐土原藩主の島津家は姻戚関係になりました。
さらに1612年には、島津家久(いえひさ・初代薩摩藩主)が人吉城にやって来て長毎のもてなしを受けます。
しかし、もてなしは長毎から受けたものの、家久が泊まったのは頼兄の屋敷でした。
長毎にとっては面白くありません。
その上、1628年10月には、長毎の次女阿万(おまん)が、頼兄の孫である喜平次(きへいじ・頼章)のもとに嫁ぎます。
すでに頼兄の娘が長毎の嫡男・人吉藩2代藩主の頼寛(よりひろ)の元に嫁いでいたので、頼兄は頼寛の舅となっていました。
それによって、藩における頼兄の政治力は不動のものになっていたのです。
ともすれば、犬童家が相良家に取って代わりそうな勢いだったのかもしれませんね。
しかし、頼兄はそんな大それたことはせず、1636年の春に隠居したいと申し出ます。
(この年、長毎は江戸で亡くなりました。)
隠居願いは受け入れられ、頼兄は隠居所として岡本古城を修築し始めました。
それまではまぁ良かったのですが。
城下には市も開かれ、領民が集まってなかなか賑わったそうです。
頼寛は、「もう自分の権威など微塵も無い。我慢ならない」と思ったのでしょう。
4年後、5月と8月の2度に渡って、頼寛は頼兄の悪行をそれぞれ9ヵ条,13ヵ条からなる目安状にまとめて幕府に提出しました。
その内容は、
一.隠居所に町家を建てたこと。
一.家中の知行を勝手に取り上げて横領したこと。
一.長毎・頼寛から忠実な家臣を遠ざけたこと。
一.百姓に難題を吹っ掛けて他領に追いやった上、他領から不審な人間を入れて扶持したこと。
一.島原の乱のとき、不埒な行為をしたこと(これについては詳細がありませんでした。気になりますが…)。
一.年貢の収支決算に関すること。
一.頼兄・頼安(息子のほう)の知行方を主君へ報告しなかったこと。
というものだったようです。
具体例を挙げられると、ほんとうに頼兄たちは好き勝手していたことがわかりますね(^◇^);
頼寛の訴え(もはや涙の叫び?)を受理した幕府は、頼兄を江戸に呼び出しました。
幕府は、頼兄本人の話と頼寛の目安状を比較・吟味し、頼兄に次のような裁定をくだします。
陸奥弘前の津軽家へのお預け。
これは厳しい部類の処分に入るそうです。
その頃、くにでは大乱が起きていました。
頼兄が頼寛に訴えられて江戸に行った、と知った頼兄の一族が、主家相良家に対して反乱を起こしたのです。
のちに「御下の乱」と呼ばれる乱でした。
犬童側は屋敷に立て篭もり、相良側の兵に徹底抗戦します。
屋敷は燃え上がり、討死する者や自害して果てる者が続出します。
下の写真の右上のほうに、朱色で点々と塗られている建物があるのを確認いただけるでしょうか。
これは燃え上がる頼兄の屋敷だそうです。
(画像クリックで拡大)
男連中は討死や自害で死に、女子供は立て篭もる男連中によって殺されました。
この乱によって、犬童一族121人が亡くなりました。
(画像クリックで拡大)
御下の乱の慰霊碑です。
犬童一族全員が亡くなったとされていますが、実はただ1人頼兄の娘が生き残ったそうです。
その人が頼寛夫人であるかどうかは分かりませんが、頼兄の娘が建てたと言う頼兄の慰霊碑があるそうです。
さらに、この乱のときに忠を飾った人物を言い伝える品が相良神社に残っていました。
(画像クリックで拡大)
「力石」と呼ばれる石だそうです。
相良家のお家存続を成功させ、功臣として名を高めた犬童頼兄。
その彼に待っていたのは、東北への追放と一族の粛清でした。
次回、「犬童清兵衛頼兄 最終回」では、近年発見された頼兄のナゾについて書きたいと思います。
こんなに長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。 2:58
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深水宗方長智とともに、相良義陽・忠房・長毎の3代に仕え、相良家存続に尽力した人でした。
外交だけでなく、水俣城攻略戦など大小19の合戦に出陣し、その体には31ヶ所の傷をもつ勇士でもありました。
その死に際して、数名が殉死したそうです。
父親の死。
これは、犬童頼兄にとって好機の到来だったと言えるかもしれません。
「殿様の御ため」と奉公に励んできた頼兄ですが、次第に専横に走り始めました。
これまでは父親が彼を諫言したのですが、父親の死後、だれも止めることができなくなったのです。
まず、頼兄は日向島津氏との結び付きを固くします。
翌々年7月には、頼兄の息子・内蔵助(くらのすけ。頼安)のもとに島津以久(もちひさ)の娘が輿入れしました。
これで、犬童家と日向佐土原藩主の島津家は姻戚関係になりました。
さらに1612年には、島津家久(いえひさ・初代薩摩藩主)が人吉城にやって来て長毎のもてなしを受けます。
しかし、もてなしは長毎から受けたものの、家久が泊まったのは頼兄の屋敷でした。
長毎にとっては面白くありません。
その上、1628年10月には、長毎の次女阿万(おまん)が、頼兄の孫である喜平次(きへいじ・頼章)のもとに嫁ぎます。
すでに頼兄の娘が長毎の嫡男・人吉藩2代藩主の頼寛(よりひろ)の元に嫁いでいたので、頼兄は頼寛の舅となっていました。
それによって、藩における頼兄の政治力は不動のものになっていたのです。
ともすれば、犬童家が相良家に取って代わりそうな勢いだったのかもしれませんね。
しかし、頼兄はそんな大それたことはせず、1636年の春に隠居したいと申し出ます。
(この年、長毎は江戸で亡くなりました。)
隠居願いは受け入れられ、頼兄は隠居所として岡本古城を修築し始めました。
それまではまぁ良かったのですが。
城下には市も開かれ、領民が集まってなかなか賑わったそうです。
頼寛は、「もう自分の権威など微塵も無い。我慢ならない」と思ったのでしょう。
4年後、5月と8月の2度に渡って、頼寛は頼兄の悪行をそれぞれ9ヵ条,13ヵ条からなる目安状にまとめて幕府に提出しました。
その内容は、
一.隠居所に町家を建てたこと。
一.家中の知行を勝手に取り上げて横領したこと。
一.長毎・頼寛から忠実な家臣を遠ざけたこと。
一.百姓に難題を吹っ掛けて他領に追いやった上、他領から不審な人間を入れて扶持したこと。
一.島原の乱のとき、不埒な行為をしたこと(これについては詳細がありませんでした。気になりますが…)。
一.年貢の収支決算に関すること。
一.頼兄・頼安(息子のほう)の知行方を主君へ報告しなかったこと。
というものだったようです。
具体例を挙げられると、ほんとうに頼兄たちは好き勝手していたことがわかりますね(^◇^);
頼寛の訴え(もはや涙の叫び?)を受理した幕府は、頼兄を江戸に呼び出しました。
幕府は、頼兄本人の話と頼寛の目安状を比較・吟味し、頼兄に次のような裁定をくだします。
陸奥弘前の津軽家へのお預け。
これは厳しい部類の処分に入るそうです。
その頃、くにでは大乱が起きていました。
頼兄が頼寛に訴えられて江戸に行った、と知った頼兄の一族が、主家相良家に対して反乱を起こしたのです。
のちに「御下の乱」と呼ばれる乱でした。
犬童側は屋敷に立て篭もり、相良側の兵に徹底抗戦します。
屋敷は燃え上がり、討死する者や自害して果てる者が続出します。
下の写真の右上のほうに、朱色で点々と塗られている建物があるのを確認いただけるでしょうか。
これは燃え上がる頼兄の屋敷だそうです。
(画像クリックで拡大)
男連中は討死や自害で死に、女子供は立て篭もる男連中によって殺されました。
この乱によって、犬童一族121人が亡くなりました。
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御下の乱の慰霊碑です。
犬童一族全員が亡くなったとされていますが、実はただ1人頼兄の娘が生き残ったそうです。
その人が頼寛夫人であるかどうかは分かりませんが、頼兄の娘が建てたと言う頼兄の慰霊碑があるそうです。
さらに、この乱のときに忠を飾った人物を言い伝える品が相良神社に残っていました。
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相良家のお家存続を成功させ、功臣として名を高めた犬童頼兄。
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
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欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
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