ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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武蔵守よろし氏が運営されているサイト、戦国未満の「戦国ソング」という項目で見つけた曲です。
歌詞はコレです↓
www.uta-net.com/user/phplib/Link.php
もう、見たまま歌詞のまま(笑)。
関ヶ原の第3の主役、黒田官兵衛を歌った曲です。
せめて関ヶ原の戦いが長引けば、天下を取ったであろうと言われている策士・黒田官兵衛。
徳川家康や石田三成が睨みあっている間、彼は国もとの九州で、西軍側の諸将の領土をあらかた切り取り、その兵力を以って関ヶ原に乱入し、天下を取るつもりでした。
しかし、関ヶ原合戦はわずか1日で勝負がついてしまいます。
これにて官兵衛の野望は潰え、信長・秀吉・家康を押し上げた天才としての名前しか残らなかったわけで。
いや、それにしても。
『黒田官兵衛苦笑い』だけれども、歌詞を見て曲を試聴して、管理人は大笑いでした(笑)。
あえてここで相良話に繋げるなら、黒田官兵衛と深水宗方、犬童頼兄を比べると、策士として最も優れていたのはだれでしょうか。
…やはり、ダントツで黒田官兵衛でしょうか?
主に活躍規模の差で。 1:39
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肥後隈府城の隈部親永が国主佐々成政に反抗、これより肥後国人一揆に発展する。
この年の五月、豊臣秀吉は九州へ軍を進めて島津氏征伐を行い、九州を平定して改めて国割りを行いました。
その結果、翌六月二日に佐々成政に肥後一国が与えられることになるのですが、成政はいきなり難しい局面に立たされることになります。
肥後は元々菊池氏が治めていましたが、戦国期に入ると力のある家臣たちが次々と独立して国人化し、菊池氏の存在は有名無実化していました。
こうして地域ごとに独立した国人衆がそれぞれの地域を支配し、有事の際にはそれぞれの判断で進退を決めていました。
当時、肥後中央部に隈本城主・城久基、北部に隈府城主・隈部親永、北西部に筒ヶ岳城主・小代親泰、南部に人吉城主・相良長毎といった国人衆が割拠していましたが、このうち隈部親永が成政に対して公然と反旗を翻します。
秀吉は成政を肥後国主として任じた際、「五ヶ条の制書」と呼ばれる朱印状を下しますが、その中に「三年検地有まじき事」という一条があります。
それに反して成政が性急に検地を行ったため国人衆が反発したとされますが、実態はもう少し複雑な事情があったようです。
肥後の国人衆たちは秀吉の九州平定後、旧領は安堵されたものの、所領は大きく減らされました。
細かく言えば、菊池氏支配当時の所領に戻されたわけで、その後戦国期のどさくさに紛れて押領した分はすべてカットされたのです。
隈部氏の場合を例に取れば、千九百町あった所領が八百町に減らされました。
これでは国人たちが反発するのも無理はありません。
しかし、国人たちにも問題がありました。
彼らは本領安堵の意味を従来の大友・龍造寺・島津氏による肥後争奪時代と同様に考えていたようで、成政から通達された際にも「我々は秀吉公から所領を安堵されている。貴公(成政)から指図を受けるいわれはない」といった態度に出ました。
国人衆にすれば秀吉の家臣ということでは成政とは同格であり、その下に入ることが納得できなかったのでしょう。
ともあれ隈部但馬守親永は子の山鹿城(熊本県山鹿市)主・式部大輔親安(泰)と籠城し、成政に反抗しました。
そして、この動きに同調する国人衆が次々と現れることになります。
またコピー…すいませんー。
実はこの一揆、大変な目に遭ったのは佐々氏だけでなく、相良氏もなんです。
若干自業自得ですけれども(笑)。
一揆勢が隈本城を包囲したとき、秀吉は伊集院忠棟を介して、島津氏に佐々氏を助けるよう命じます。
命を受けた島津義弘は、「よし来た」とばかりに?行軍を始めました。
しかし、それをどう勘違いしたのか、佐々氏は、一揆のどさくさに紛れて島津が自分を討つのではないかと誤解して慌てます。
そこで、人吉在住の相良長毎-佐々成政のときも、のちに移封してくる加藤清正のときと同じく、肥後の与力として働いていた-に、島津軍の行軍を阻止せよと命じました。
まだ若かったせいか、それを真に受けた相良くんは、佐敷で島津軍を止めてしまいました。
「秀吉公の命であるのに、なぜそんなことをするのか」と怒った伊集院忠棟は、秀吉に長毎の行動を訴えました。
当然、秀吉は怒り心頭でして。
大慌てで深水宗方(長智)が大阪に行き、弁明に努めてなんとか秀吉の怒りを解きました。
優秀な家臣をもつことは、ほんとうに大事なことですね…。
しかし、翌年2月。
島津義弘は、石田三成と細川藤孝に対して、「相良氏の行動はあきらかに一揆行動であるから、討ち果たすべき対象であり、長毎が大阪に来たときには糾弾すべきだ」と訴えました。
訴えに対して2人は「それはもっともだ」と答え、今度義弘が大阪にやって来たときに詳しく話を聞かせてくれ、秀吉公にも話すつもりだから、と返しました。
最高に危機的状況に立たされた相良くん\(゜ロ\)(/ロ゜)/
実は…彼(ら)のとった行動には、ある種の「リベンジ」があったのではないか、と言われています。
よく書きました通り、長毎の父親である義陽の戦死以来、相良家は島津「幕下」体制下に組み込まれました。
この境遇において、相良氏は島津家の仕打ちに対する反抗心を抱いていたとも考えられています。
そのため、島津氏の行軍を阻止して「ざまぁみろ」という気持ちもあったのかもしれません(管理人の私見)。
さらに、ある程度の時間行軍を止めさせれば、島津氏は秀吉に怒られるのではないか…秀吉からの信用を無くすのではないか…と、島津氏を陥れ、次こそ自分がのし上がっていこうとする思惑があった可能性もあります。
その辺りが、「相良のリベンジ」を感じさせます。
秀吉だけでなく、石田・細川両氏にも「逆臣」と見なされて、またもやお家存続の危機に立たされてしまった相良氏ですが、なにはともあれ、宗方のおかげで取り潰しを免れることができました。
毎度毎度、うまく切り抜ける一族です(笑)。
ですが、この問題は、以後の島津・相良両氏の関係にひずみを生じさせました。
同年4月、島津氏は(きっと秀吉に)巣鷹(巣のなかにいる鷹の雛のこと。これを捕まえて鷹狩り用に飼育する)を献上したいのに、相良氏が立ちはだかって苦労している、と加藤清正にこぼしています。
大大名島津氏に苦労させる、小大名相良氏。
今更ですが、相良氏って、結構気の強い一族なのかもなぁ。 16:25
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毎度お馴染み、犬童頼兄氏。
昨夜、急にかわいい(!)…訂正、親しみやすいよりあにを描きたくなり、挑んでみました。
その結果がこれです↓
(画像クリックで拡大)
以前よりは「まだ見られる」雰囲気になったと思います。
遊んでみました↓
(画像クリックで拡大)
これでこそ頼兄ですよね(笑)。
主家の家紋を突っつくなっての(^◇^)。
全体的に青色で涼しげなので、さらに遊んでみました↓
(画像クリックで以下略)
相良家筆頭家老が送る、暑中見舞い。
2008年の暑中見舞いは、これで勝負です。
…とまぁ、結果的に3つ子のよりあにができたわけです。
お持ち帰りはご自由にどうぞ。
…だれが持ち帰るんだろうか(笑)! 0:34
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「司馬遼太郎の描く女の子って、あまり可愛くないと思わないか」
と話を振ってみました。
すると、
「うん。なんていうか、男らしいというか、ガサツというか…。はかなくない」
意外に同意の答えが返ってきました。
その友人は司馬遼太郎氏の本を結構すみからすみまで読んでいるので、少なくとも管理人よりは意見に信憑性があります。
なんだかね。
彼の描く女の子には、繊細さが足りない。
男には女の心情なんてそう分かるものではありませんが、他の男の作家が描く女より、心理描写に手抜きを感じるわけでして。
…なんて、若輩者が知ったようなクチを利いているわけでして(^◇^);
実は管理人が気に入っている、「犬童清兵衛頼兄」カテゴリー。
しかしこのカテゴリー名を見るだけで、書き手がいかに彼について知らないかが分かりますね。
頼兄が「清兵衛」と名乗る前に、彼は「相良」姓を主君からもらっているのですから、正しくは「相良清兵衛頼兄」か「犬童頼兄」の2通りしか無いわけです。
なにも知らなかった orz 1:30
秀吉子飼いの勇将で賤ヶ岳七本槍の一人として知られる後の熊本城主・加藤清正が生まれる。
父は清忠。
また慶長十六年(1611)の同日、清正が居城の熊本城で病没。
毒殺の噂が流れる。
享年50歳。
豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の一人として知られる加藤清正は、永禄五年(1562)のこの日、清忠の子として尾張中村に生まれました。
幼名虎之助、のち主計頭(かずえのかみ)、肥後守に任ぜられます。
三歳の時に父清忠が病没、五歳の時に母・いと(伊都)とともに津島へ移り幼年期を過ごしますが、この津島時代に近所に住んでいた同じ年頃の力士・才八という少年と仲良くなり、後に力士は森本儀太夫秀虎、才八は飯田覚兵衛直景と名乗り清正の家老となっています。
やがて清正母子は縁戚関係にあった羽柴秀吉の庇護を受けることになり(一説に清正の母と秀吉の妻おねが義姉妹という)、十五歳の時に秀吉を烏帽子親として元服、加藤虎之助清正と名乗り百七十石を与えられて秀吉の小姓として取り立てられました。
二十歳の時に秀吉の鳥取城攻めに従って初陣を果たし、続いて備中高松城(岡山市)攻めの前哨戦にあたる冠山城(同)攻めや山崎合戦でも活躍しますが、何と言っても清正の武勇を広く世に知らしめたのは賤ヶ岳の戦いです。
この戦いの前に秀吉は「大垣大返し」という強行軍を行いますが、その際清正の馬が替え馬共々脚を痛めたため、清正は徒歩で従軍して木之本まで駆け通したという逸話が残ります。
その後、追撃戦では真っ先に駆け出して柴田勝家方の大聖寺城主・拝郷五左衛門家嘉の鉄砲頭・戸波隼人を討つと、秀吉方から勝家方に寝返った山路将監正国をも組み伏せて首を挙げるなど活躍、「賤ヶ岳七本槍」の一人として大きく喧伝されました。
その後も数々の戦いで活躍、やがて肥後半国二十五万石を与えられ熊本へと移りました。
特に朝鮮役では「鬼上官」の異名を取り、虎退治など数多くの武勇譚が残されています。
しかしこの戦いで石田三成・小西行長らと対立、関ヶ原の戦いでは徳川家康に加担して九州を固め、戦後に肥後一国五十二万石の大大名となりました。
清正は豊臣家の恩も忘れず家康と秀頼の和睦に心を砕き、ついに慶長十六年(1611)三月、二条城において秀頼・家康の会見を実現させますが帰国の際に船中で発病、回復することなくこの日熊本城で没しました。
以上は、戦国系サイト「戦国魂(せんごくだま)」からの抜粋です。
文章を盗ってきてしまい、ごめんなさい…。
今年の2月でしたか。
NHK「その時歴史が動いた」で、熊本城含む加藤清正について特集していました。
あの城には、本丸に繋がる隠し通路があるそうですね。
これは清正を守るためではなく、豊臣秀頼を守るためのものだったそうです。
それほどまでに、豊臣家に忠誠を誓っていた加藤清正。
彼は三成が憎いがために関ヶ原で家康側につきますが、合戦後、家康にとって豊臣家恩顧の大名である加藤清正は邪魔な存在でした。
よって、清正の子の代で加藤家は改易されています。
酷い。
そして、「きよまさ」と打とうとして「きよましゃ」になった己のタイピング能力も酷い。 0:32
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
「さがら紀行」
人吉旅行記
「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします
「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公