ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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さてさて。
そんなこんなで、一部とは言え、所領を取り戻した頼景です。
その後、彼はご近所の浅羽・勝間田の諸氏と共に義定の下について、平氏討伐に尽力したであろう、と考えられています。
「考えられている」と言うのも。
実は橋本事件以後、「吾妻鏡」には、相良氏の動向が分かる文章は壇ノ浦合戦に至るまで記されていないそうです。
其れすなわち、相良氏=影の薄い存在だった、ということですね!
これぞ相良氏、むしろCOOL(笑)!
…それで。
京の守護を分担するなど、義定は次第に力を増し、彼の遠江支配は、国司と守護の権力を兼ねるほど強力なものになりました。
これをはばかった後白河院が、遠江における勅・院事対捍(たいかん)、つまり、朝廷が賦課する臨時の仕事をサボったことを理由にして、一時は義定を下総守に遷任させてしまうほどでした。
しかし、義定の運もここで尽き果ててしまいます。
始めに彼の息子・義資(よしすけ)が、永福寺(ようふくじ)薬師堂の供養のとき、聴聞に来た女房にラブレターを送ったことが露顕、斬罪に処されました。
縁座により義定の所領は没収され、さらに翌年には、彼自身が謀反を計画していたとして、息子と同じく斬罪に処されました。
ここで安田一族は滅亡。
上司を失ってしまった相良君。
先の事件で、お偉いさんにちょっかいを出しただけに、「これからどうなるんだろう?」なんて気弱なことは思いそうにもありません(^◇^;)。
結局、彼は義定の手に属していたと考えられ、九州は肥後・多良木村に下向させられました。
実際のところ、義定の処刑は、源氏の有力一族の排除、という政治的な意味合いが濃厚だと言われています。
あーあ。
とばっちりだね…。
かくして、相良氏の九州住まいが始まったそうです。
今度こそ史実に近いと思います。
もしかすると、これまでに書いた他の記事にも誤りがあるかもしれません。
お気付きになられた方は遠慮なく、是非ご指摘ください。
管理人は、より信憑性の高い情報をもとに記事を書くよう努めて参ります。
この度は、誤った情報を公開してしまい、たいへん申し訳ありませんでした。
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
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司馬史観が、相良氏を斬る!
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関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公