ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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「史実相良氏」カテゴリーの最初の記事、「静岡から熊本へ」の記事に誤りがありました。
相良氏は、伊豆での頼朝の挙兵に従わなかったから九州に下向させられたのではありませんでした。
ずばっと一言で言ってしまうなら、くにの守護役の不祥事の巻き添えを食らった、ですね。
今回は、そのきっかけとも言える事件、「橋本事件」についてです。
源氏vs平氏の時代、東海道を東下する平氏に対する関東の防備として、頼朝は遠江の守護役に源氏一族の安田義定を配置しました。
源氏軍は勝ったり負けたりしつつ、平氏の勢いを食い止めようと奮戦していました。
が、ついには、頼朝の叔父らが率いる尾張・三河両国の軍勢が、美濃の墨俣川(すのまたがわ:墨俣は現在の岐阜県南西部の地名)で平氏軍に敗退しました。
遠江の防備態勢に緊張が走ります。
その直後のことでした。
遠江の橋本で、浅羽宗信(あさば・むねのぶ)と相良三郎が、遠江の守護役である安田義定に所領を没収されるという事件が起こります。
義定は、平氏の襲来に備えて橋本に砦を築くために働き手を調達していたのですが、それに対して、浅羽・相良両氏が非協力的であった上に、義定の前を挨拶無しに馬で通り抜けて行ったことにご立腹。
さっそく頼朝に報告し、浅羽・相良両氏の所領を没収する許可を貰いました。
武士にとって一番大事なものは領地です。
これが無くなっては、食い扶持が断たれたも同然です。
後日、両氏が陳謝したため、所領・所職(しょしき)の一部は返還されました。
以上が、橋本事件です。
この出来事が、義定と相良氏を結び付ける一因となったと言えるでしょう。
…それで。
相良三郎という人物についてですが。
彼について、「全訳吾妻鏡」などでは長頼(ながより)とされているそうですが、「求麻外史」では長頼のパパ頼景とされているそうです。
求麻外史では、長頼は治承元年(1177)生まれとしているので、橋本事件のときは僅か5歳ということになるとか。
よって、相良三郎なる人物は頼景を当てるのが妥当であろう、ということだそうです。
確かに、たった5歳で宗信と組み、意図的に守護の前をすぱーんと素通りしたのなら、ある意味大物ですよね(笑)。
次回は、「相良氏 とばっちりを食らって肥後へ」をお送りします。
さてさて。
そんなこんなで、一部とは言え、所領を取り戻した頼景です。
その後、彼はご近所の浅羽・勝間田の諸氏と共に義定の下について、平氏討伐に尽力したであろう、と考えられています。
「考えられている」と言うのも。
実は橋本事件以後、「吾妻鏡」には、相良氏の動向が分かる文章は壇ノ浦合戦に至るまで記されていないそうです。
其れすなわち、相良氏=影の薄い存在だった、ということですね!
これぞ相良氏、むしろCOOL(笑)!
…それで。
京の守護を分担するなど、義定は次第に力を増し、彼の遠江支配は、国司と守護の権力を兼ねるほど強力なものになりました。
これをはばかった後白河院が、遠江における勅・院事対捍(たいかん)、つまり、朝廷が賦課する臨時の仕事をサボったことを理由にして、一時は義定を下総守に遷任させてしまうほどでした。
しかし、義定の運もここで尽き果ててしまいます。
始めに彼の息子・義資(よしすけ)が、永福寺(ようふくじ)薬師堂の供養のとき、聴聞に来た女房にラブレターを送ったことが露顕、斬罪に処されました。
縁座により義定の所領は没収され、さらに翌年には、彼自身が謀反を計画していたとして、息子と同じく斬罪に処されました。
ここで安田一族は滅亡。
上司を失ってしまった相良君。
先の事件で、お偉いさんにちょっかいを出しただけに、「これからどうなるんだろう?」なんて気弱なことは思いそうにもありません(^◇^;)。
結局、彼は義定の手に属していたと考えられ、九州は肥後・多良木村に下向させられました。
実際のところ、義定の処刑は、源氏の有力一族の排除、という政治的な意味合いが濃厚だと言われています。
あーあ。
とばっちりだね…。
かくして、相良氏の九州住まいが始まったそうです。
今度こそ史実に近いと思います。
もしかすると、これまでに書いた他の記事にも誤りがあるかもしれません。
お気付きになられた方は遠慮なく、是非ご指摘ください。
管理人は、より信憑性の高い情報をもとに記事を書くよう努めて参ります。
この度は、誤った情報を公開してしまい、たいへん申し訳ありませんでした。
それが実は、相良氏は、静岡県在住の頃は牧場経営者だったのだそうです。
牧場主・相良さんと、武士・相良氏は、意外に密接な関係にあります。
相良氏という一族が、相良庄を発祥の地とすることは以前書いたとおりです。
その相良庄は、九州に下向した頼景以前5代、周頼(ちかより)がその地に居住したことから始まりました。
(『相良系図』より。しかし、名字の地を得るために意図的に作成された系図であり、偽系。)
同庄は元は官牧で、白羽牧と呼ばれ、飼育した牛馬を馬寮(めりょう※)に貢納していました。
その後、官牧が廃絶され、私牧化された白羽牧は牧域を拡大、新たに相良牧が成立しました。
ここの牛は相良牛と称され、皇族や公家が使う牛車の需要を中心に「国牛ブランド」として有名だったそうです。
かの頼朝が駿河由比の浦に赴き、弓馬の芸や牛追物(うしおうもの)を観覧したとき、その牛の中に相良牛も混じっていた、という話もあるそうですよ。
さらに、朝廷で行われていた仏教儀式に、相良牛の牛乳が上納されていたとも言います。
このように、在地領主として相良牧開発責任者となり、カウボーイたちを束ねていたことが、相良氏武士化の端を発していると考えられています。
※馬寮:管理人は説明しきれないので、Wikipediaに頼りました。ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%AF%AE
いやー。
この事実、管理人は意外でした。
武家で刀を振るっていた人の元々が、牧場主だったなんて、愛嬌満点だと思いませんか?
相良牧。
言い換えれば相良牧場。
探してみたら、日本全国どこかにありそうですね。
「さがら牧場」。
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
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「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公