ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。
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相良氏ファン並びにファンサイトなら、見逃せない頁を見つけました。
相良神社 相良護国神社(別窓が開きます)
http://homepage3.nifty.com/mr-jinjya/kumamoto-hitoyoshi-sagarajinjya.htm
とりあえずクリックしてみてください(笑)。
相良家初代から第36代目までの名前が並んでいます。
見えにくいですが、第11代目が長続ですね。旧字体の「續」になっています。
さて。
前回も書きましたとおり、相良家生粋の血筋は10代目尭頼までです。
その後は、分家の永留氏、上村氏から養子を取りながら家を保持していました。
しかし、28代目晃長(みつなが-秋月家からの養子)から当主の早世が目立ち始めます。
晃長は僅か11歳で亡くなってしまい、もちろん、この年齢では継嗣などいません。
いたら、かなりのやんちゃ坊主です。
この時代、跡継ぎが決まる前に当主が亡くなることは大変なことでした。
幕府から改易(武士の身分、所領や屋敷・城を剥奪されること。家臣は浪人になることが多い)を受けてしまうからです。
困った相良家。
取った処置は、他家から頼完(よりさだ-享年19)を連れてきて、晃長が頼完と改名したことにし、なんと28代目と29代目を同一人物にして系図を改めたのです。
涙ぐましい努力です。
それ以降の当主は、福将(とみもち-享年20),長寛(ながひろ-享年63),頼徳(よりのり-享年83),頼之(よりゆき-享年53),長福(ながとみ-享年32),頼基(よりもと-享年45),頼紹(不明)…となっています。
あまり当主がコロコロ変わると、領地の政情不安にも繋がりますから、避けたい事態です。
しかし頼徳、長生きですね。
ちなみに、16代目から戦国大名化し、20代目から人吉藩主としての相良氏だったそうです。
廃藩後は、相良氏は旧華族に列し、子爵家として存在しました。
いいですね、相良神社。
ぜひ一度、歴代当主の方々にお会いしたいものです。
今回はそれについて書きます。
1448年2月、相良氏分流(下相良)の永留氏・長続は本家(上相良)の当主を殺害、力で本家を乗っ取り、上下相良氏の統一を果した…。
ずっと、そう考えていました。多良木氏の存在を、まるでスルー。
本来ならば、分家の反乱を沈めるというヒーロー的な働きをし、その功績を認められて栄えある出世-本家の家督を相続-を成し遂げた努力家ですよ。
この勘違い歴史では、どこにでもいる単なる権力欲にまみれた男です。
それでも、この下剋上が気に入って「SAGARA」を作った事実に間違いはありません(-_-;)。
長続氏、御免なさい。
あなたはもっと真面目で、上司思いの人でした。
自分で言うのもなんですが、「SAGARA」の長続は割といい人だと思います。
普段は憎まれ口を利いてばかりだけれど、たまに優しい一言がぽろりとこぼれたりするのです。
思いやりはあるのに、恥ずかしくて言えなくて、つい心とは裏腹のことをぶつけてしまう。
…ツンデレ?
管理人は、「SAGARA」にてネタ化させていただいた部分の史実について、申し訳ない勘違いをしていました。
それをお話しする前に、その部分の正しい史実について書きましょう。
急に話が飛びますが、時は移ろい相良家十代目のころ。
分家が本家を乗っ取ろうとする事件が起こります。
当時の相良宗家当主は、わずか10歳で家督を継いだ、15,6歳の尭頼(あきより)でした。
1448年2月、相良氏分家のひとつである多良木(たらぎ)氏の兄弟、相良頼観・頼仙(よりみ・よりひと)が、尭頼の居城である人吉城に火を放ちました。
びっくり驚いた尭頼は鹿児島に逃げ(母親が鹿児島の島津氏)、頼観は城に留まりました。
ここで長続登場!
もうひとつの分家の城主であった永留(ながとめor永富ながとみ)長続(ながつぐ)は、すぐさま挙兵して人吉城を奪還、頼観を追い出しました。
「お手柄じゃねーか!」と思ったかどうかは知りませんが、長続は鹿児島に避難していた尭頼に帰宅を促しました。
しかし、どういう訳か、尭頼はその誘いを断ります。
その心の内には、反乱を鎮めた功労者である長続に本家の家督を継いで貰いたい、との気持ちがありました。
滅相も無い、と長続が遠慮したため、尭頼は人吉城に帰ります。
…が。
3月28日に尭頼は急死してしまいました。
その後、長続が次期当主に推され、相良家の第11代当主になります。
言うまでもなく多良木の兄弟は討伐され、多良木氏は滅亡しました。
実は相良家にはもうひとつ分家があるのですが、その上村氏は、今回は関わりがないようです。
ですが数代のち、本家といざこざを起こすわけです…★
さて。
この十代当主・尭頼の死によって、本家人吉相良氏の血筋は途絶えてしまいました。
牛好きな人だったらしく、牛の角に衝かれて死んだとか、踏み付けられて死んだとか、「死因が牛ネタ」は尽きないようです。
しかし、尭頼の死は、相良家の歴史の中でも謎のひとつとされています。
総領家の尭頼が人吉に帰還していながら、わざわざ鹿児島の寺に葬られていたり、永留長続が、多良木兄弟の反乱直後にスムーズすぎるほどにスムーズに対応していたり、そもそも多良木の反乱の背景が不透明であったり。
マイナー武将にも謎はあるものですね(笑)。
長くなりましたが、これが史実相良氏の歴史です。
「裏SAGARA」にて、管理人が勘違いしていた歴史を書きます↘
「ちょっ相良氏カッコいいな!」と思ってもらえることを目標に、みじみじと書いて参ります。
奇妙な表現方法は半分故意、半分過失ですので、どうぞあしからずです。
相良氏は、現在の熊本県に根を張っていた一族ですが、実は出身は静岡県です。
遠江国(とおとうみのくに)相良荘、今の「牧之原市相良」に住んでいたので、相良氏と名乗るようになりました。
ここでは、彼らのネーミングセンス評論は置いておきます。
それで。
静岡県でお茶に囲まれた生活をしていた相良氏が、なぜ九州まで移動したのかと言いますと。
あの、かの有名な源頼朝の挙兵 in 伊豆に協力しなかった上、
「HA!頼朝がどうしたよ!俺には関係ないNE!」と偉そーな態度を取ったため、肥後国多良木荘に左遷されたのです。
自業自得と言えば自業自得ですよ(身もフタもない)。
いえ、でも、頼朝に九州赴任を命ぜられなかったら、その後の相良氏の繁栄はなかったわけで。
そこらへんが、歴史の愉快爽快な部分ですね。
という訳で、これから相良氏の九州暮らしが始まるわけです。
大スペクタル・ストーリーとは程遠い、地味なお話ですが、乞う御期待!
知名度が抜群に低い、肥後の相良氏。
670年も家を継続させたのに、司馬遼太郎氏には「それは偶然だ」と言われていたり。
いや、たとえ偶然であろうとも、そこにはきっとドラマがあるはず!
こちらSAGARA BLOGでは、そう信じる(思い込む)管理人が、一次創作「SAGARA」の裏話を交えながら、鬱陶しいくらい熱く氏について語ります。
不定期更新のために遅々として話が進まないかもしれませんが、どうぞ当ブログをよろしくお願いします。
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「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています
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「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作
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「匠氏画廊出張所」
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肥後 相良一族
(池田こういち 著)
相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。
街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか
(司馬遼太郎 著)
司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。
関ヶ原
(司馬遼太郎 著)
戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公