忍者ブログ
マイナー武将とは言わせない!
ここでは、遠江相良氏や肥後相良氏について語ります。
言うなれば、相良氏ファンサイトですよ。




 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回の記事は、ほんとうにしょーもないです。
でも書きたかったので、お目汚しを承知の上で書いてしまいます。
↓↓↓

踊るシリーズの有名な台詞のひとつ、
「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!」。
これを関ヶ原合戦時の島津義弘に言わせたい。

島津家は当初東軍につくつもりで家康にとある場所の守備を申し出ましたが、家康に断られてしまい、面子を潰される形で西軍に属したそうです。
そして合戦中は傍観を貫き、敗戦が決するや「島津の退き口」を東軍の連中に見せつけたのは関ヶ原合戦の魅力を語る上で外すことができません。
そんな島津家のトップは当主の義久、しかし当主と同等かそれ以上の実力をもっていたのが弟の義弘でした。
かの天下人秀吉も、島津家に相談事をする際は義久にするか、義弘にするか悩んだそうです。
役割分担、と言うと意味合いが違いますが、陰で戦の指揮を執るのが義久、実際に合戦場に出て戦うのが義弘、というふうに分かれていました。
関ヶ原合戦の際も、現地に赴いたのは義弘でした。
しかし、義弘がもっていた兵や物資は、合戦を戦い抜くには足りませんでした。
そこで義弘は、兄に兵や物資を送るようくにに手紙を送ります。
が、薩摩が遠国のために中央の情勢に疎かったのか、くににいる兄・義久は、「それは必要ない」と返事を出し、なにも援助してやりませんでした。
負けずに義弘は何度も要求しますが、すべて断られてしまいます。

ここで上の台詞を言わせたい。
「合戦は薩摩で起きているんじゃない、関ヶ原で起きているんだ!」

…こんなことを書いて送ったら、義弘強制帰国→切腹、が妥当な式だったでしょうけどね(笑)。
勝手なイメージながら、義久には冗談が通じそうにないので(^◇^);
…で。
結局、兵は薩摩から自主的に戦いにやってきた人数で補ったそうです。
これが結構な人数だったそうですから、義弘が相当慕われていたことがわかります(美談で終わろう)。

もうひとつ「踊る」関連でネタしょーもない小話があるのですが、上の話のあまりの寒さに夏を忘れた方はぜひブラウザバックを(苦笑)。

2つ目の台詞は、
「レインボーブリッジ封鎖できません!」。
これを島津家に言わせたい時期は、関ヶ原合戦後、薩摩に戻って国境を閉ざし固めた頃です。

関ヶ原後、家康東軍にとって戦犯国である薩摩は「いつでも来い」と言わんばかりに戦意旺盛だったそうです。
家康は島津の強さを知っていましたし、天下をとって間もない頃に全国の大名を動かして薩摩を攻めさせれば大乱が起き、また戦国の世の中になる恐れがある、として薩摩征伐には乗り気ではありませんでした。
それでも攻めさせるならば、地理的に近く、その上武勇において名高い熊本城主・加藤清正だという意見が多かったようです。
島津氏は、攻めて来るなら加藤清正、それも薩摩大口郷から入ってくるだろう、と予想していました。
そのため、彼らは島津家きっての名将・新納武蔵守忠元を大口の地頭にし、守備させました。
当時忠元が作ったという軍歌があることは以前記事にしましたが、ここにもう一度その歌を呼んでみます。

『肥後の加藤が来るならば 焔硝肴に団子会釈 団子は何たど鉛団子
 それでも聞かずに来るならば 首に刀の引き出物』
忠元はこれを士卒に歌わせ、士気を高めさせたそうです。

ここで上の台詞を言わせたい。
「大口郷封鎖できません!」

…島津氏はむしろ加藤清正が好きだったようなので、逆に「封鎖したくありません」かな…。
…で。
結局、加藤清正による薩摩征伐はありませんでした。
くにではこのように臨戦態勢を保ちながらも、大阪では家康の機嫌をとりつつ、しかし所領安堵は譲らず、硬軟取り合わせての外交術を以ってついには家康の首を縦に振らせました(サクセスストーリーで終わろう)。

無駄に長いのに、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
関ヶ原と言いその後の外交と言い、島津氏の豪快な振る舞いは見ていて気持ちがいいです。 0:56

↓相良氏もばっちこい!(押して頂けると、当ブログのランキングがアップします)
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 戦国時代(携帯用リンクです)
PR

昨日の午後。
使う機械の順番待ちをしていたら、横に居た女の子が、
女の子『これって島津製作所のじゃないんだ、HITACHIなんだね』
管理人『え゛っ…??(考え中)…あぁそうだね。HITACHIのは珍しいね』

「島津製作所」の前半2文字のせいで、あやうく別の方向に思考を進めるところでした。
と言うわけで。
毎度ありがとうございます、某Nです。
肥後は清正だけじゃないんだぜ、と言わんばかりの相良っぷりブログです(笑)。

さて。
著しくそのまんまなタイトルは『島津の伝説』です。
ご先祖様が島津家と関わりをもっていらしたという、山内達哉氏が作曲された曲。
以前、当カテゴリーでアップした動画「島津の退き口」をイメージして作られたそうです。
ぼくの私見ですが、ピアノの音は、大勢の馬が駆けていく様子を思い浮かばせますね。
いいなぁー。
相良にも、武勇伝的な伝説があるのだろうか。
The Legend of Sagara. 1:59

ついに設置されました…『薩州島津氏』カテゴリー。
以前より、島津氏寄りの発言が目立ち始めていた管理人。
当初は、相良氏を呑もうとする、単なる敵対勢力としか見ていませんでした。
しかし。
調べれば調べるほど、味の出てくる一族なんです。
人気が高いから、こちらが求めれば、彼らの情報はいくらでも手に入る。
この環境は、相良家にはなかった。
知りたくて探して、ようやく見つけても、その情報はほんの切片に過ぎなかったりね。
その切片を拾い集めて、イメージを作り出すのも面白いと言えます。
ただ。
覇気が欲しい。
独特の気風、武骨の精神が欲しい。
そういう理由で、当カテゴリーを新設いたしました。
もちろん、今後、『SAGARA BLOG』から『SHIMADZU BLOG』に移行するつもりはありません。
相良氏を反映する鏡として、島津氏を扱っていけたらいいな、と思います。
…今回、マニアな気持ち悪さのある文になってしまいましたね。
いつも以上に。

下のは有名な「島津の退き口(のきぐち)」の動画です。
戦場から逃げたことに変わりはありませんが、こうまでも大胆に敵軍中央突破されると、敵ながらあっぱれ、な気分になりますね(笑)。

こよみ
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
リンク
(劇)池田商会制作様

「『広目天の眼 不知火の海』公演特設サイト」(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました


黒い吟遊詩人氏

「狗小屋」黒い吟遊詩人氏
戦国島津氏が題材の「戦国島津伝」が完結し、現在は「志純太平記」を執筆されています


犬童頼兄日記

「犬童頼兄日記」
「殿様の御ために」日々働く犬童頼兄を創作


さがら紀行

「さがら紀行」
人吉旅行記


さがら検定

「さがら検定」
さがらマニア度を検定いたします


匠氏画廊出張所

「匠氏画廊出張所」
管理人の知り合い絵師・匠氏による武将絵です


歴史ブログ村

歴史ブログ村(PC用リンクバナー)
ランキングに参加させていただいています


歴史ブログ村(PC用リンクバナー)

来訪者数
さがら書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
さがら書簡(別窓開きます)
アンケート
さがら本
Amazonにリストマニアを作成しました。

肥後 相良一族

肥後 相良一族
(池田こういち 著)


相良氏の基礎の基礎をおさえるには持って来いの一冊です。
当ブログでいちばんお世話になっています。

街道をゆく

街道をゆく3
陸奥のみち、肥薩のみち ほか

(司馬遼太郎 著)


司馬史観が、相良氏を斬る!
人吉のまちの様子が見えてきます。

関ヶ原

関ヶ原
(司馬遼太郎 著)


戦国時代を締め括る総決戦。
この大合戦から、相良氏を見てみる。
領内検索
いわゆるひとつの「ぶろぐ内検索」です。
最新CM
[12/12 LesFity]
[10/22 LesFity]
[09/19 ミルグレイン]
[08/18 何某]
[08/13 相良]
最新TB
管理人紹介
HN:
某N
性別:
非公開
職業:
藩校生
趣味:
九州
自己紹介:
身分:分家生まれ。尚且つ長子でもなし…。
欲しいもの:日本刀と笛
なりたいもの:相良氏の領民(笑)。
贔屓の相良氏:第11代長続公
バーコード
お天気情報
アクセス解析
忍者ブログ [PR]